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近世に到る海洋交通における情報伝播の意義について、二、三指摘しておきたい。

 

(1) 情報ルートの航路

島国である日本の立地条件を念頭におけば、遠い地域同士の情報交換が船によったことはいうまでもない。各地で発掘される独木船の事例や、記紀、続紀、風土記、万葉集などの古文献にある記載など、その証拠にこと欠かない。古代の律令体制を維持したのは船運による諸国の物産の集配機構が整ってきたためである。例えば『延喜式』によれば、太宰府から難波津までは30日、佐渡から敦賀津まで49日の海路日数をかけて、あとは陸送した。また対岸アジア地域から漂着し易い位置にあったこと(たとえば8世紀最初の渤海国朝貢船は漂着した)も情報伝達のあり方として考える必要がある。仏教とともに中国の文化要素である科学技術導入も数多くの公的な船の派遣によって実現した。

聖徳太子や小野妹子等が活躍した飛鳥時代には計4回の遣隋使(派遣600-614年)によって仏教文化が導入された。難波から出て瀬戸内海を通り、筑紫・対馬を経て朝鮮沿岸を北上し、渤海湾を横断して山東半島に到るいわゆる北方ルートをとっていた。奈良・平安期の計15回に上る遣唐使の派遣も、初めは同じルートをとったが、敵対関係にあった新羅の半島統一以降は奄美大島を経由する南ルート、平戸・福江島を通る南島ルートで一気に東シナ海を渡るか、さらに沖縄・石垣島に南下してから横断する海道ルートなどがあった。室町・戦国期の計17回、140年に及ぶ幕府や戦国大名による遣明船(渡航船数は85隻に上る)も、旺盛な堺の商人の参入で活況を呈した。ソロバンの導入はこの時期である。船はいずれも帆船櫓つきの平底船であった。

 

(2) 航海地図情報

地図が初めからいま見るような姿をしていたわけではない。たとえばマーシャル諸島では海面のうねりが島にぶつかると向きを変えるなどの現象がよく知られていたので、それを読み込んだヤシと貝の海図が最近まで使われていた。また紀元前500年のバビロニアでは粘土板に記した地図が見つかっている。紀元2世紀のアレキサンドリアのプトレマイオスは、初めて球体である地球を平面に表そうとして、緯度と経度を考え、地図に適用した。過去の文献と商人や軍人などの旅行体験などをもとに構成したものだから不正確ながら、地中海世界はよく把握され、インド洋が陸地に取り囲まれている。船乗りたちはギリシャ時代以来ペリプルス(Periplus)とよぶ航海記録を集積して、沿岸図を作り上げ、新しく磁石が知られるようになるとそれを使いながら、陸地の目印も頼りにしながら沿岸航海を活発に展開していた。

 

 

 

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