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そのため、付添婦が主体的に話ができ、いろいろな情報が表出しやすい状況になる。これは目的を持った意図的なコミュニケーションであると考える。また、付添婦に注意を促す時、ストレートに表現しすぎると相手の感情を損ねてしまう可能性があり、それが患者に対して悪影響を与えかねないことを考慮し、“本人に気づかせる”ようなコミュニケーションスキルを用いていた。

次に、意志の尊重のあり方について。

意識レベル清明であれば、その時々の思いを言語的、非言語的コミュニケーションで表現でき、医療者はそれに対し支援していくことができる。では、意識レベル不安定の患者の場合、どういう視点で患者をみていくことが、その人にとっての意志尊重をしていることになるのか?

患者が、自分らしさということを意識する、しないにかかわらず、意に添うようにやってもらうことは、結果的にはその人らしさを保ち続けられることにつながると考える。意識レベルが不安定でも、悪いなりの反応はある。看護婦は、声かけや、その状況をみながらケアしていく。その時、判断の基になるものは、元気な頃の患者の理解や、病気になってからの思いを知っていることが、その人の価値観にいかに近づき、支援することができるかにかかってくるし、重要になってくる。

このケースでの付添婦の立場は、チーム医療の中でどの位置にあるのか?を考えた。患者の意識レベルは清明でないが、誰か側にいる人を自身が求めている。入院前、身の回りの世話をしてもらうことを目的として付添婦を付けた。その1週間後に入院したが、そのまま付き添っていてほしいと本人の希望があった。病院は、付添婦をつけることは認めていない。が、キーパーソンである甥は、その役割を十分に果たせない現状がある。ここで学んだことは、付添婦は甥の役割に値すると、ここでは考えることができるのではないかということである。当然、すべてのことにおいて代行できないが、患者がその人を必要とし、甥もその人を認めている状況があれば、医療者としては、付添婦も大きな意味で家族の一員であるということを考慮する必要があるということである。これは、看護学的家族の定義の「近親者、血縁関係でなくても、お互いがかけがえのない存在として認識し合っていれば、家族としてみてよい」に近いのではないか? ただし、このケースの場合、付添婦は仕事上の契約で来ているので、“お互い必要”ということは成立しないが、少なくとも患者は自分にとって必要な人と思っており、付添婦も仕事上の役割を果たそうとしているため、関係は成立するのではないか。

日々ケアしていくうえで、細かいことでも判断に迷う場合がある。この時、側にいる付添婦を大きな意味で家族ととらえたとしても、いろいろなことを最終決定していくには誰の意見を聞いていくことがよいのか。

看護婦は、決定権は誰が持つか、について甥と話をした。緩和医療については医療スタッフ、生活面は付添婦、何か決定していくことがでてきた時は、自分に必ず電話を入れ確認してほしいと意向を示した。

患者本来の“その人らしさ”を理解していくことはできるのだろうか。様々な疑問、問題が出てきた時、タイムリーにカンファレンスで話し合い、方向性を統一し、そのことについて患者、家族に意見を求め、家族が何を望んでいるか、意志確認や約束をきちんとしていくことが、医療者とのゴールの共有がはかれ、相互理解につながり、信頼関係を構築していくためのパートナーシップがはかれると考える。

本人にしかわからないがゆえに、周囲は考え悩むことになるが、ハッキリとした結果が出なくても、一緒に考えていくプロセスが緩和ケアでは大切なのだということを学ぶことができた。

 

おわりに

 

2週間という短い期間ではあったが、いろいろな場面に同席することができたことで、講義を受けたことが、実際の場面ではどういうことなのかが、いままでは経験的に行っていたことが、理論づけすることができ、大きな学びとなった。

今回、実習をさせていただきました聖ヶ丘病院の太田婦長さんをはじめ、スタッフの皆様には大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。

 

 

 

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