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喜びも悲しみも幾年月

河田弘太郎(かわたこうたろう)

 

昭和三十年の十月、私は香川県から列車を乗り継ぎ、十日の早朝、長崎駅に着いた。そして、食事をとる暇もなく五島行きの連絡船「藤丸」に乗船した。

八時に長崎港を出港。山の頂上付近まで立ち並んだ町並みが次第に遠ざかり、山々が遠くかすんで水平線だけがくっきり見えるようになると、それまで経験したことのない淋しさが一気に頭をもたげた。

どうにかして気を紛らわせたいと思い、だれ彼となく話しかけるが返ってくる言葉は聞いたこともない方言の波ばかり。

外国人の中にポツンと一人いるような、孤独感に戸惑いながら、時間が経過していった。

数時間も経っただろうか、目前に大きな島が迫ってきて最初の港、福江港に着いた。

大部分の乗客はここで下船し、次の港に向け出港したときには、人影はまばらで、所々に人が寝ころがっている状態になっていた。

岐宿(きしく)と三井楽(みいらく)に寄港し、最後の目的港玉之浦に向け三井楽港を出港したときには、もう日は沈み辺りは薄暗くなりかけていた。

客はいつしか、私一人になっていた。

一時間も経っただろうか、船内放送で玉之浦港に着いたことを知らされ、デッキに出てみると、裸電球が一つ灯った浮き桟橋の上でもやい綱をとる人が一人、作業をしていた。

町に降り立ったとき「大変な所に来てしまった」という後悔が頭を掠(かす)めたが、私には引き返して帰るわけにはいかない事情があった。それは、一日も早く就職して母を助けなければならないという、長男としての義務を強く感じていたからである。

 

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無人島、女島の厳しい出で立ち

 

私は、昭和三十年に詫間電波高等学校本科を卒業した。在学中に無線従事者の免許を取得し、大変な就職難の中を海上保安庁に採用され、希望に胸を膨らませて赴任してきたのである。

玉之浦町の事務所に着任してやれやれと思ったのも束の間、当直など主要な業務をする勤務地は、ここからさらに九〇キロほど西方の男女群島の無人島、女島であることを知らされた。女島は当時わが国の西の入口に位置し、ここの大型灯台は船舶にとって父親のような存在感があった。

女島での業務は、灯台の維持管理の他、気象観測、電波による船舶の位置測定、そして公衆電報取扱などを無休体制で行っていた。

職員は五人一組となり二週間交代で勤務していたが、台風銀座のこの地では二週間で交代できることは稀(まれ)であった。

そのころは、今日ほど自動化が進んでいなかったため、過酷な条件の職場があちこちでみられたが、それらの中でも女島は、鳥島や富士山頂と並んで、わが国の三大難所の一つといわれていたのである。

私が着任して二年近く経ったころ、雑誌「婦人倶楽部」に掲載された前所長の奥さんの手記が、映画監督木下恵介氏の目に止まり映画化されるとの噂が伝わってきた。

その映画が、灯台職員の生活を描いた「喜びも悲しみも幾年月」である。

五島の奥浦でロケがあり、つづいて女島にもロケ隊がやって来た。無人島での撮影は非常に苦労が多かったと聞いている。

この映画は非常に多くの人を感動させた。主題歌も昭和の名曲として、今も人に愛されている。

 

 

 

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