東京湾謎の大量重油流出事故
あの日“カタストロフィ”は本当に起きたのか?(その四)
(社)日本海難防止協会 主任研究員 大貫伸(おおぬきしん)
老漁師、カタストロフィを語る
油屋は野島橋の脇にあった。平潟湾に面する本庄家からは、ゆっくり歩いても僅か七、八分の距離であった。
その道すがら、私は勇船長から池内のことをいろいろと聞かされた。昔、武男が日本で始めての本格的な遊漁船業を開業するに至ったのは、池内がもたらした「偶然」がきっかけであったことは私には初耳であった。
「油屋」とは通称であった。古びた木造の商店の正面には「山口商店」の看板が掲げてあった。「潤滑油、船用品取扱店」の朱書きの文字も目に飛び込んだ。
勇船長が先頭に立ち、我々は挨拶をしながら入り口のガラス戸を開き店の中へと入っていった。池内新三は店の奥の応接セットに背筋をきちんと伸ばしちょこんと腰掛けていた。そして神妙な面持ちで我々の到着を待っていた。
隣の席にこの家の主人山口光吉が微笑み浮かべながら腰掛けているのが対照的であった。
つい先程まで水入らずの熱戦が繰り広げられていたのであろうか、テーブルの上には将棋板と駒の入った木箱が無造作に置かれていた。腰の低い光吉に手招きされ、我々は彼らの正面の席に座った。
まず私は突然の訪問を丁重に詫びた。手土産の清酒は将棋板の脇に邪魔にならぬようそっと置いた。
箱入りの二本の「剣菱」は、先程、私が近くの酒屋へ走り調達してきたものである。テーブルの隅には、飲みさしの二つの湯飲み茶碗が置かれていた。中央の灰皿には、茶菓子の包み紙が丸めて捨てられていた。私としたことが迂闊であった。この二人が左党であるかどうかを確かめる余裕すらなかったのである。
様子を傍らで見ていた勇船長が思い出したようにごそごそと紙袋の中を探り、カステラの折箱を一つ取り出した。片手で掴み山口光吉の前に「これ、持ってきたので……」とひょいと突き出した。私の知らぬ間に気の利く女将さんが持たしたものに違いない。
山口は笑顔で何度もお辞儀を繰り返し、我々の土産を丁重に受け取った。池内新三は背筋を伸ばし、正面の一点をじっと見据えたままである。土産を一瞥したがすぐにまた視線を元の状態に戻した。真面目な老漁師は遠い昔を思い出そうと必死になっていた。
山口の細君が奥から現われた。物静かに会釈をしながらテーブルの上に我々二人の分の湯飲み茶碗を置いた。
それを合図に、私は東京湾海洋汚染カタストロフィに関する今までの経緯についての説明を始めた。池内の右耳には小さな補聴器がちょこんと付けられていた。私は池内に向かって一言づつゆっくりと言葉を選び、やや大き目の声で語りかけた。
池内はとても齢九十を過ぎた老人には見えない。決してお世辞ではない。頭髪を失した頭部は赤銅色に輝いている。袖をめくったシャツからは力瘤を蓄えた逞しい腕が覗いている。矍鑠(かくしゃく)とした老漁師の姿が我々の目前にあった。
程なく私の説明が終わった。束の間の沈黙があった。口火を切ったのは山口であった。
「へぇー、そんな話が本当にあったのですか。うちは私が二代目でしてねぇ。死んだ親爺が戦後沼津からここに移り住み油の商売を始めました。ですから関東大震災の話はまったく存じませんのですよ。いや、ここにいる新三爺さんは別ですよ。震災の翌年から本格的に親爺の船に乗って漁に出ていたそうです。以来七十五年間、今でも立派な現役の一本釣りの漁師ですよ。