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おそらく東京湾内の現役漁師では間違いなく最年長のはずです。しかも腕は超一流です。もっとも将棋の腕は私とどっこいどっこいですがね。ははは……、残念なことに、つい最近耳が不自由になりました。ですが記憶は確かですよ。しかも体は健康そのものです。

この新三爺さんにかかったら、私なんぞまだまだ『はなたれ小僧』ですよ。ははは……」

山口は場を取り持とうと冗談交じりでそう語った。還暦をとうに越しているはずである。好感が持たれる独特の語り口と愛想の良さは商売人のそれとは明らかに違う。持って生まれた彼の性格に違いない。

それまで遠い一点を見据えたままだった池内が、突然、何かを思い出したかのようにゆっくりと頷いた。そしてついに語り出した。

「……あの日は朝から強い『みなみ(南風のこと)』が吹き、海は大時化じゃった。『みなみ』は確か幾日も吹き続いたはずじゃ。やがて『こち(東風のこと)』が吹き、?ならい(東京湾では北風のこと)?に変わったのは一週間もたってからかのう。悪いことが起きるのは、決まって『みなみ』が吹く時じゃ。東京の大空襲の晩も確か『みなみ』が激しく吹いとった」

私の頭に衝撃が走った。当時の風の状況について、私はまだ一言も池内に話してはいなかったのだ。にもかかわらずこの老人は、日本海難防止協会の報告書に記載されていたとおりの風の状況を、寸分違いなく見事に言い当てたのである。今を去ること七十六年も前の風の状況をである。

「そのとおりです ! よく覚えていらっしゃいましたね !」

私は思わずそう叫ばずにはいられなかった。そして池内の次の一言を聞き逃すまいと、全神経を傾け体を乗り出した。

「わしは当時、小学校の最上級生じゃった。卒業を半年後に控えておった。わしらの部落では、漁師の倅で上の学校に進む者なぞほとんどいなかった。わし自身も、『学校なぞ早いとこ卒業して、漁師の仲間入りをしたい』と子供心に常々思っておったもんじゃ。

修行を積み、やがて一人前となって親爺の後を継ぐことは、漁師の倅にとっては至極当たり前の時代じゃった。少しも『いやだ』などとは思わなかったよ。むしろ、漁師の仲間入りを果たすことが大人となるための証、男としての誇りじゃった。

わしは学校が休みの日には、必ずと言っていいほど親爺の船に乗っかつて漁に出ておった。少しでも早く親爺に技を教えてもらい、一人前の漁師になりたかったからじゃよ。同じ年頃の漁師の倅連中だけには絶対に負けたくはなかったよ。

大震災のあった日、うちは船を出していなかった。何せあの『みなみ』じゃもん……。

当時の船はどれも櫓で船溜りの外まで漕ぎ出し、あとは帆を操って魚場まで走っておったんじゃ。特に『みなみ』は湾の入り口からまともに吹き込んでくる厄介な風じゃ。親爺は絶対に無理な漁には出んかったよ。

漁師の家の飯は早い。親爺らは昼飯を終え、皆で漁具(どうぐ)の手入れをしておったはずじゃ。学校から戻ったわしも、それを手伝おうとしておった。

そこに突然の大揺れじゃ。何が何だがわからぬうちにすべてが終わっておった。家の軒先に一尺も離して吊るしておいた二つの大鍋が、揺れが収まったあとも『ゴーン、ゴーン』と不気味な音をたててぶつかり合っておったよ。まるで昨日のことのように思い出すよ。

そういやぁ親爺が言っておった。地震の一週間ほど前から大津の真沖で、突然、クロムツの奴が入れ喰いになったそうじゃ。第一奴らは十尋やそこらの海にいるような魚じゃねぇ。しかも、昔からそうそう数釣れる魚でもねぇ。それと、三日前に下浦ではたくさんのイサギがぷかぷかと浮かんだそうじゃ。漁師連はそれを気味悪がっておったそうじゃ。その矢先にあの地震じゃ。今にして思えば前兆だったのかも知れねぇ。

確か地震のあった日、夕方だったと思うんじゃが、漁師連が集まりうちで寄り合いを始めたよ。幸いなことに、うちはそれらしい被害をほとんど受けていなかったからのぉ。その時、漁師仲間の一人が野島越しに横須賀の空を指差しながらこう言った。

 

 

 

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