一つはアートを道具にして使ってしまおうということがあります。もう一つは、アートそのものは道具ではなく目的です。両側面がありまして、今どちらがはやりかといいますと、アートを道具として利用してしまおうという動きのほうです。
例えば、一流のアーティストに子供のためにワークショップをやらせてみれば、ほとんどの人が完壁にできると思います。アーティストならそのくらいたやすい。精神病院で開放療法をやります。絵でもダンスでもなんでも構わないんですが、壁一面に絵をかかせて、非常にかたくなになった気持ちを解きほぐしていくというようなことをアーティストにやらせるならば、ほとんどのアーティストはできます。それが、本当に効果があるかというと、開放したらもっとひどくなってしまったということも起こりうる危険性があるわけですが、ただ、そういうことは簡単にできる。
神戸の震災が起きたとき、子供たちは危機に陥りました。それを演劇のワークショップをやって、コミュニケーションをもう一度確立できるようにするという訓練だったら、演出家であれば、だれだってできる作業です。絵でも音楽療法でもあります。アートを徹底的に道具として使っちまえと。相当いい道具なので、まだ使い切った人がいないくらい、いくらでも使える分野があるわけです。
例えば、ダンスをやって、柔軟な気持ちにさせて、リラックスさせようというのは、簡単なことで、アーティストを呼んでワークショップをやらせればわけない。福祉にアートは使えるし、教育にもアートは使えるわけです。そうなったときに、アートは福祉であると、そこまで極言する人はあまりいないわけですが、論理的にはほとんどそれに近いということです。だから、福祉やアートも同じ論理の下でNPOの中に入れて、いろいろな形で確立していこうというような論理を、今のところ何人かの人が主張している。
つまりこれは、アートは有益な道具だから社会的に支援するべきだというような論理になるわけです。この分野は非常に可能性がありまして、需要もすごく大きいのですが、供給がされないという不思議な分野です。だからこの分野は今後やった者勝ちの分野ですから、どんどん広がっていくと思います。学校から病院から、何から何までどんどんアートが入っていくのはもう間違いないし、海外では実際そういうことが行われている。
しかし、これだけだとアートは半分なんです。もう一つ側面がありまして、これは昔から言われていることで、アートは道具なんかじゃない。表現そのものであって、それ自身が目的なんだという主張なわけです。これを主張すると、すぐ返ってくるのは「好きでやっているんだから」という答です。