好きでやっているのは当たり前で、そのとおりなんですが、そんなことは勝手に言えばいい。好きにやっているということと、支援するかしないかというのは、全然別問題です。
この前ちょっとアサヒビールの社会貢献セクションの加藤種男さんと会いました。加藤さんは、最初の主張はおかしいと言っていて、なにかアートの本質を取り逃がしているという主張です。アートにとって最も肝心な部分が抜けている。それでは、アート自身が目的なんだと言ったときに、それを支援するのにどういう論理があるのか。
アートというのは、人間の表現という最もすごい能力の最先端のあらわれです。これこそ最も人間らしい表現なんだ。それを人間の生活に取り入れなくて、われわれの生活は豊かなのかというように、まともに主張しろというわけです。アートは道具としても使えます。その部分で支援するのもいいけれど、それ自身が目的で、それが人間らしい最も先端的なあらわれならば、それ自身を支援するべきだという主張をしておかないと、えらい間違いが起きちゃうよということなんです。アートは福祉でもない、教育でもない。人間の本質的な表現行為である。これは、人間の最も高度な表現活動そのものに支援すればいいんだと堂々と居直っている論理です。
この間起きている論理をまとめるとこんなものでしょうか。出発点はどれも国家戦略じゃない論理をつくり出そうというところから始まっている。そうじゃないときに、非常に難しくなってしまった。
アメリカでもフランスでも、その論理がまともに成立しているかというと、そうでもない気がする。どの国を見ても結局はお金が欲しいということだけだということのような気がして、表現だから支援をしろという主張はあまり考えられていない。
それでは次にもう少し文化政策に近づきますが、では高度な表現活動だというけれども、何が高度かということがここで問題になります。ここで今までと違う論議をしないといけないというのは、今までの論議はすべて枠組みの論議でして、支援をこうするべきだ、こうあるべきだというシステムをつくる論議をしてきています。しかし、アートの内容に踏み込まないでシステムができるのかということです。内容に全く踏み込まないで、枠組みだけをこうあるべきだ、こういうシステムをつくるべきだという論議に終始している。どうもおもしろくないわけです。
内容と、一つのシステムというか、形が一緒に論議されないで、システムだけが論議されている。