彼女も「放っておいてさん」だったらしいのですが、彼女が克明に付けていた日記を見ると、何人かの人や機関には悩みを訴えていたフシがあります。その人たちは彼女に「この人なら私も悩みを打ち明けられる」と見込まれたのです。この「見込まれた人」が重要なカギを握っていると見たらどうでしょう。
考えてみれば私たちだって、困り事をだれに打ち明けようかと思ったら、当然、優先順位を決めるでしょう。まずは肉親、次は親友、その次は…という具合に。とすれば、地域の困り事を抱えた人たちも同じように優先順位に従って悩みを打ち明けているに違いないのです。
だから「この私に悩みを打ち明けない!」と憤慨することはないのです。たまたま「あなた」は見込まれなかった。しかし、地域のだれかをは見込んでいる。それなら当事者が見込んだ人を「通せば」いいと考えればいいのです。という意味では、「助けを求めることができない人」なんていないのです。たまたま自分は見込まれなかっただけで、その人だってだれかには助けを求めていると考えたほうが正しいのです。
実際に自分は見込まれないが、その当事者が見込んでいる人、たとえば八百屋のカミさんなどを通して間接的に接触したりかかわったりしている民生委員に時々出くわします。「それでうまくいっている」と異口同音に言っています。
近隣活動をするときは、活動する自分の側から見るのでなく、相手の側から冷静に見ていくと、難題も意外に簡単に解けるのだとわかってきます。だれに相談し助けてもらうかは当事者が決める―この当たり前の事実が頭に入っていればいいのです。
近隣型助け合いとは…?
お互いの顔が見え、生活の内情がわかりあっている近隣の住民同士が、お互いの心を大切にしながら、日常生活の営みの中で、『自然流』に身の回りのお世話や家事、介護、食事づくりなど生活するために必要なことを互いに支え合い、助け合うことをいいます。