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そもそも民主主義は、個人の自主・自立を基礎に成り立ち、そうでなければ1票の平等性はありえない。したがって、行政はその個人が自力で、あるいは隣近所、いま少し広いコミュニティで、その所属団体、さらにはボランティア活動によって私的に充足されている限り発生の余地はなく、それらが不可能となって初めて一番身近な自治体で公的に担われることになる。そして、基礎的自治体が広域的協力によっても遂行できなくなった行政は、広域自治体で、さらに広域でも不可能なものは最後に国家によって担われるべきものとなろう。地方六団体の勧告は、そのような意味で初めて民主的行政のあり方への転換を示唆したものであったといえる。

このような考え方は、欧米の先進諸国で時折実生活の中から実感させられた。イギリスの郵便局が雑貨屋の奥の方に置かれて、そこの店主などがそれこそ外国郵便から年金まで扱っているのを見て驚かされたことがあったが、もう30年も前に見たこの光景は、コンピューターなど近代設備が整った最近でも基本的に変わっていないように思われる。そのことはまた、日本の壮大な都道府県の庁舎とは対照的に、小さな木造で済ましているフランスの県庁舎からもうかがわれる。もちろん、荘厳な何百年と続く石造りの市庁舎が、近来の行政機能の拡大で、わが国でも改築以前の高度成長期に見られたタコの足的拡大をよぎなくされたことは否めないが、しかし行政の量という点では、現在の日本の自治体は、かなり不必要な余剰部分を抱えているような気がする。それは、帰するところ全国画一な国家行政に根があり、またそれに伴い自治体の自主的な採否判断の余地を狭め、あるいは補助金や起債の誘惑、ときにはそれらによる実質的強制によってやらされてきたという実情によるものではなかろうか。

 

行政機能の拡大と発想の転機

 

もちろん、これらの行政機能の拡大は、必要に応じて進んだものであり、昭和40年代以降の都市化の下では、先進自治体の先取りしたものがやがて国の方で取り上げ、全国的に実施されるに至ったものも少なくない。だが、いずれにせよ、基本的には国の画一的施策の形は変わるところがなかった。そして、その内容が福祉や教育、あるいは下水道、公害などにも広く向けられるようになったのは、民主政治の形態を採る限り国民の欲する生活向上のための行政施策を展開せざるをえなくなったからである。

これを、大正末期までの特に町村の行政と対比してみると一目瞭然である。そのころまでは、東京の周辺の町村でも多くが農村であり、役場の事務は国から委任された兵事・戸籍・徴税(国税や府県税も市町村で一括徴収)、教育、衛生、勧業、土木などごく限られたものだけで、職員も選任の書記は2〜3人に過ぎなかった。これは、小さな市でもあまり変わりがなく、例えば現在は人口100万人を突破する川崎市でも、大正13年に5万人足らずで市制を施行した時点では、合併旧3町村の事務のほかにはようやく水道に着手したのと、翌年県から移管された20人ばかりの子どもを預かる託児所、並びにやはり県から移管の職業紹介だけだった。これが、昭和に入り恐慌下で年々流入する人口の失業救済を図らねばならなくなって下水道などの土木事業にまず手を付け、次いで国の救護法関係の事務、母子福祉事務へと少しずつ拡張した。しかし、今日の福祉の分野は、いうまでもなく拡大家族や農村的自給自足社会で低水準のまま維持されていたにすぎず、また明治以来時折襲来した赤痢や腸チフスなどの伝染病に対しては、いっぺんに一年分の臨時支出をよぎなくされたりしていた。とにかく、このように旧制度下では、一部の大都市を除き、まず国の法律で決められていた行政以外に手を広げる余地はなかったといえる。そして、このような国の行政の下請的姿勢は、前述のとおり行政機能の飛躍的拡大の時代を迎えても基本的に変わるところはなく、それどころかむしろいっそう強められたと見てよい。

 

さらなる地方分権の推進のために

 

このような伝統的な中央地方関係を断ち切って、真の意味での対等同格・役割分担を確立するのは容易ではない。何よりもまず自治体が、そして住民がそれを明確に意識して努力しなければ、単に制度いじりに終わってしまうこと必定である。幸い、ようやく自治体にもその機運が醸成されつつあり、住民の間にもNPOを初めさまざまな動きが強まっている。

だが、盾の反面をなす自主財源の付与のための改革が引き続き進められるようにならなければ、しょせん仏作って魂入れずということになりかねない。

 

 

 

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