「まちづくリ力」の育てかた
〜パートナーシップで何を鍛えるか〜
斉藤睦(地域総合研究所)
「まちづくリ力」を考えてみる
少し前に、「老人力」という言葉が流行った。ある事態やテーマに「力」という言葉をつけると、そのものの実態がよく見えるようになったり、それまで見えていなかった新しい視野が広がる経験が面白いからである。
老人は弱くてやっかいな存在として、いわばマイナス・イメージで受け止められていたが、物忘れする老人のボケ症状を、「忘れることができる力がついた」と解釈する逆転の発想が新鮮であった。
ここで考えたいのは「まちづくり力」である。「まちづくり」は、決してマイナス・イメージではない。しかし、「まちづくり」は曖昧模糊として、つかみどころがない。それを「まちづくり力」と捉えることで、その幾分かが明らかになるように思う。そして、いま、まちづくりの分野でキーワードとなっている、「パートナーシップ」という概念も見えてくるように思う。
「制度疲労」が、さまざまな場面で噴出する
すべては、疲労する。「制度」も例外ではない。
議会制民主主義も、中央集権型行政も疲労がはなはだしい。物事の決定や事業推進のしくみが、制度疲労をきたしてしまって、このままでは必ずしもいい方向にはいかないのではという不安や焦りがまちづくりの分野にも現れてきた。
この背景として三つほどの要因があげられよう。
ひとつは、社会の成熟化である。
戦後、先進国に追いつき、追い越せと成長を追い求めてきた。道路や通信、運輸、住宅、上下水道、学校、公園、社会福祉施設と、曲がりなりにもシビルミニマムがある程度は達成された。これは、ひとつの成熟である。しかし、"先進国"というお手本を追い抜きかけたときに、目標を失い、その後の成長の成果を"泡"として雲散霧消してしまった。しかも、次の目標を描き得ていない。それが、不安や焦りにつながっている。
二つ目は、高齢社会である。
市町村を挙げての大問題は、「介護」のしくみづくりである。猛スピードで介護が必要な高齢者が増える。「介護保険事業」がスタートしようとしているが、厚生省の方針の打ち出し方も歯切れが悪い。国が決めたことは、本当に頼りになるのか。分権の時代となって、基本的な決定権は市町村にあるという。市町村の役所や議会に住民の福祉を担保できる政策立案の能力があるのか。これも不安である。
また、高齢社会には元気老人の人生設計の問題もある。これまで、ワンパターンになりがちであった定年後の老人の生き方が、成熟化のおかげで多種多様になるだろう。それらの「老人力」をどう社会の中で受け止めるか。これもこれまでのシステムでは、乗り切っていけないと思わせる重要な課題である。
三つ目に、セキュリティへの関心の高まりがある。
阪神淡路大震災を持ち出すまでもなく、地域が災害や危機に見舞われたとき、頼りになるのは、地域の人間関係すなわちコミュニティである。災害だけでなく、疑わしい宗教団体が地域に入り込もうとしている、あるいは地域から商店街が消えようとしているといったことも、地域の危機管理としては重要なテーマとなってきており、コミュニティの重要性があらためて叫ばれている。
しかし、これまで個人主義をめざして他人とはできるだけ没交渉で生活を営もうとしてきた戦後のコミュニティは、地域の問題を地域で解決する能力をほとんど失ってきている。国や行政にあまりにも依存しすぎたシステムは、もはや有効ではなく、地域で問題を解決できる新しい意思決定のシステムをつくらなければならないという気運が盛り上がってきている。