日本財団 図書館


笠つきの四角板石柱の正面上部に、数珠を持ち合掌した人物のレリーフ、その下に鳥・鹿・猪を線彫りして、年号と建立者「山本軍助利恭」の名前が銘記してある。伝承によれば、軍助は殺生をしないでくれと、必死に頼む母親の願いを聞き入れず猟を続けていた。ところが百頭目に射殺したシシが、なんと母親であった。それを悔い仏門に入った軍助はこうして動物の供養塔を建てた、というのである。

民窯の「小鹿田(おんた)焼き」に行く途中の、大分県日田市小野市木には「千匹塚」が三基も並んで建っている。いずれも江戸時代の建立であるが、それぞれに猪・鹿を千三百余とか、千百六十などと刻んである。私も国東半島で実際に千百十一頭の鹿を仕留めた老猟師に会ったことがある。その人は最後の一頭を埋葬し、大分県知事に頼んで碑文を書いてもらい堂々たる碑を建立しておられた。

特徴的な千匹塚が佐賀県武雄市あたりのもので、「五尺七寸分猪サキ」「五尺弐寸之母猪」などと、最後に仕留めた獲物のサイズが記されている。また数の最も多いのは大分県由布院町若杉山石原にある文化七年(一八一○)の塚で、「断命猪鹿諸獣凡一千九百人十四頭 右御為悔過造立之者也 六十四才次郎右衛門」全く一人で獲れば獲ったりである。

 

056-1.jpg

太郎山人神を祀る「千匹塚」――猪の尾が供えてある

 

056-2.jpg

かもいに掛けられたカマゲタ(熊本県八代郡泉村久連子)

 

ただこれらの塚を調査する中で、まことに困ったことがあった。それはひどい山中にある場合が多いのと、供養がほとんど途絶していたからである。つまり塚は千頭を仕留めた現場に建立されるのが通例で、またその猟に携わった者だけが祀り、子孫が猟をしないと放置された状態になっているからである。

もっとも中には周辺の狩り組などが、供養を続けている側もある。先記の錦町「塋顔童女」銘の塚は通称「太郎山人神」と呼ばれているのだが、幸いなことにこの千匹塚は付近の狩り組で丁重に供養をしている。しかもその供養法が面白い。猪が獲れるごとに、その尻尾を切り取って串に挟み地蔵の前に供えるのだ。「お地蔵様に獣の尾をあげるなど!」一見全く奇妙な風習である。しかし幕末まで神と仏は至って“仲良し”だったのだから。

 

以上、九州脊梁山地の狩りについて概略を述べてきた。しかし焼畑農耕と狩猟の関係、山間部の神社や神楽などとの関わり等、もっと大きな報告事項は山ほどあった。しかし紙数の関係で今回は断念せざるをえない。またいつの日か、その機会の到来を夢見ながら。

<肥後考古学会会員>

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION