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見世物研究家・列伝………川添裕

 

現代では見世物というと、どこか「うらさびしい」感じがつきまといがちだが、江戸時代には両国や浅草などで盛んに行われ、最もよく親しまれ大衆娯楽のひとつだった。

華麗にしてスピード感あふれる軽業師・早竹虎吉の曲芸(図1])、魚の干物で三尊仏をつくった愉快な「とんだ霊宝」(図2])、一目見るだけで七福が得られるといわれた象の見世物(図3])など、その種類は豊富でなかなか質も高い。早竹虎吉などは慶応三年(一八六七)にアメリカへ渡り、サンフランシスコほか各地で興行して人気をよんでいるほどだ。アクロバットにせよ、奇妙な細工にせよ、舶来の珍しい動物にせよ、日常生活とは違った驚異の世界を見せたこれらの興行は、庶民ばかりでなく、当時の知識層の関心もひきつけ、随筆・記録類に盛況のさまが記された。

 

江戸っ子の見せ物好き

 

隠居僧の十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)は、最も見世物にはまってしまった一人で、文政三年(一八二〇)に、ひまにまかせて両国の見世物小屋十数軒をはしごするさまを、「酔狂とやいはん、馬鹿ものとや笑れん、論外といふべし」と、その著『遊歴雑記』にじつに楽しそうに記している。また、江戸落語中興の祖として知られる戯作者・烏亭焉馬(うていえんば)も、大の見世物好きだった。実質的な処女出版が「とんだ霊宝」がらみの『開帳富多霊宝略縁起』(安永六年)で、七十八歳の作が十方庵と同じ両国の見世物を題材にした『開帳見世物語』(文政三年)という一貫ぶりも凄いが、安永七年(一七七八)には、南無阿弥陀仏の六字名号が浮き出る「名号牛」の見世物を、あの平賀源内ともに自ら興行にかけているのである(延広真冶『落語はいかにして形成されたか』平凡社一九八六より)。

こんな遊び好きの連中とは異なるが、神田の町名主・斎藤月岑(げっしん)は『武江年表』に、おなじく神田の古書籍商・藤岡屋由蔵は『藤岡屋日記』に、それぞれ幕末期の見世物興行を数多く記録している。

これらの人々にとって、面白く痛快で、ときにいかがわしくもある見世物は、ごく普通の日常的な楽しみだったわけだが、明治に入ると、その様相は変貌していく。いわゆる「近代化」のなか、違式註違(いしきかいい)条例等で「男女相撲並蛇遣ヒ其他醜体」の見世物(図4])や、「万歳又ハ厄払ヒ、セキゾロ抔卜唱ルモノ」が取り締まりの対象とされ、こんな見世物は欧米と肩を並べる近代国家として恥ずかしいといった、よく考えれば意味不明の主張も現れるようになる。

総じていえば、こうして「いきのいい」見世物は、「近代化」の功利性の網の目のなかで活力を失っていくのである。そして皮肉なことに、見世物研究の歴史は、現実の見世物の衰退とともに始まっていく。明治も後期にいたると、江戸文化全体を再評価する潮流が現れ、そんななか、先覚者たちにより過去の見世物が語られるようになる。

 

先駆者、宮武外骨

 

見世物への関心の系譜を語る際、最初にあげなければならない名前は、宮武外骨(慶応三年生―昭和三十年没)である。江戸時代の見世物興行は、随筆・記録類だけでなく、浮世絵や引札など、当時のビジュアルメディアに活写され、見世物の様子を知る重要な手がかりとなっているが、筆者が把握するかぎりでは、これらを「見世物絵」の名で呼び、意識的な研究の対象としてとりあげた最初の人物が、外骨だからである。

外骨は明治三十四年一月、日本初の浮世絵雑誌として知られる『此花(このはな)』を、大阪の雅俗文庫(江戸堀南四丁目・外骨宅)で創刊する。それは、明治後半から起こった浮世絵再評価の気運のなかで発刊された、意欲的な雑誌であった。

 

 

 

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