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ところで、今年は、世界中の人々をテレビに釘付けにした1989年12月のあの「ルーマニア革命」から丁度10周年目にあたる。今もって深刻な課題を抱えるルーマニアではあるが、この10年間で様変わりをしたことも事実である。新憲法が1991年に採択され、議会・大統領選挙が1990年5月、1992年9月、1996年11月と3度にわたって行われ、地方選挙も1992年2月と1996年6月に実施された。その結果、ルーマニア政治は、極左的なチャウシェスクの独裁政権から、改革派共産主義者イリエスクによる中道左派政権を経て、1996年秋以降親西欧派で市場経済を目指す中道右派政権へと転換した。同政権は戦前の農民党(現在は、キリスト民主民族農民党:PNT―cdと名称)を中核とするルーマニア民主連合(CDR)、中道左派の民主党(PD)、ハンガリー人政党であるルーマニア民主ハンガリー同盟(UDMR)からなる連立内閣で、それまでの保守的な、いわゆる赤茶ペンタゴン政権とは全く性格を異にする。ちなみに、赤茶ペンタゴン政権とは、旧共産党の流れを引くルーマニア民主社会党(PDSR)を中心とし、ルーマニア民族統一党(PUNR、大ルーマニア党(PRM)、社会主義労働者党(PSM)、ルーマニア民主農業党(PDAR)という5つ(ペンタゴン)の左派・民族政党で構成されていた(1)

EU(欧州連合)・NATO(北大西洋条約機構)への加盟を最重要視する新政府が、政権に就くや否や加盟条件を満たすために、民族問題の解決、近隣諸国との関係改善、民主化に乗り出したことから、それまでまったく注目されなかったルーマニアのNATO加盟問題が急浮上することとなった(2)。ところが、マドリッド・サミットにおいて第1次NATO加盟が果たせなかったことから、ルーマニア国内にNATOショックが蔓延し、チョルビャ首相の退陣や連立政権内での亀裂の深まりなど、多方面において行き詰まりが見られるようになった。とはいえ、現政権は第2次NATO加盟を目指して努力を続けており、それは前政権の下で具体化されなかった地方行政改革が始動し出したことに現れている。

 

2 地方制度の歴史的概観

 

ルーマニアにおける議会制度の萌芽は1821年革命を契機として見られ、行政権から独立した議会が成立するのは1866年のことである(3)。この年には憲法が成立するが、地方行政に関する初めての法令が制定されるのは、この2年前の1864年のことであった(4)。コミューン法及び県議会設置法として制定された同法は、フランスをモデルとしたもので、同法によりルーマニアの地方行政は県―郡―コミューン(農村コミューンと都市コミューン)という3層から構成されることとなった。

この県制度は戦間期へと引き継がれたが、戦闘期の特徴は、農民党政権下のわずかな期間を例外として、中央集権化が進められたことである。

 

 

 

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