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知的障害者福祉研究報告書
平成7年度調査報告  〜精神薄弱者福祉研究報告書〜


第2章 ビデオ制作関連調査―ワーキング議事録―

3. 日本の知的発達障害者福祉における「育成会」の歩み

No.1

講師:北沢 清司氏(大正大学 人間学部 教授)

●「全日本手をつなぐ育成会」の歩み

(1) 主たる動き

・1952年 「精神薄弱者育成会」の結成
1952年(昭和27年)、日本では1947年にできた学校教育法によって、養護学校、特殊学級が認められたのだが、知的な発達に障害のある子供の義務制は、先延ばしの形となった。特殊学級という形で進んでいったのだが、この特殊学級の形態は様々で、1学級70名の特殊学級があれば、一方では、現在の形態に近い1学級6名くらいの特殊学級もあった。このように形態が非常にばらばらな時期があった。
親たちは、特殊学級へ入学させたいと一生懸命になったが、なかなか狭き門で入れなかった。そこで知的に発達のある子供を持つ親たちがみんなで集まって運動していこうとしたのが、1952年からの「精神薄弱者育成会」の活動であった。
そして、当初の運動目標として、「精神薄弱児のための養護学校及び特殊学級の設置、義務化」、「精神薄弱児施設の増設及び内容の充実」、「精神薄弱者のための法的措置の整備及び職業補導施設の設置」の3つの柱が掲げられた。

・1954年 「全国精神薄弱児育成会」と改称
1954年には「全国精神薄弱児育成会」と改称し、翌年には社団法人化を果たした。1956年から指導誌が月刊化されている。

・1959年 「社会福祉法人全日本精神薄弱者育成会」と改称
1959年には「社会福祉法人全日本精神薄弱者育成会」と改称した。これは、1958年に育成会が三重県の名張に「名張育成国」を創立することを決定したことを受けて、社会福祉法人化する必要があったからである。

・1959年 「精神薄弱者問題懇談会」の結成
1959年に「精神薄弱者問題懇談会」が結成された。これは育成会と「日本精神薄弱者愛護協会」、特殊学級、養護学校の教諭、全国の国立大学を主とする養護学校教諭の養成課程に属している研究者が中心になって構成されている「全国特殊教育研究連盟」の3団体によって設けられた懇談会である。

1964年から「精神薄弱者問題懇談会」は「精神薄弱問題白書」を発刊している。1974年には、先の3団体に加えて、「発達障害学会」(その当時の「日本精神薄弱研究協会」)、「障害者雇用促進協会」(その当時の「日本身体障害者雇用促進協会」)の2団体を加えて、5団体で「日本精神薄弱者福祉連盟」を結成した。雇用促進協会はすぐに抜けてしまわれたので、実質的には4団で構成される連盟が作られた。

・1961年 心身障害者医療福祉センター「鹿島育成園」開所
1961年には「鹿島育成園」を育成会としては初めて直接運営していくことになる。
1962年から育成会が国庫補助金を受けるようになった。
この頃から団体の活動に対して、国の助成がでるようになった。

・1963年 都道府県組織を単位とする連合体に
それまで育成会の支部的な単位というのは、1つの施設の親たちを中心にして、それが直接全国に加入しているという形を取っていた。1963年に、それを都道府県組織を単位とした連合体に変更した。この頃から育成会の組織自体が大きくなっていく。しかし大きくなったきた割には組織的には弱かった。

・1977年 精神薄弱者通所援護事業が育成会を通しての補助事業として発足
育成会の活動の中で非常に大きいものとして、「小規模作業所」の取組があげられる。小規模作業所は、1977年から精神薄弱者通所援護事業として育成会を通しての補助事業とされたのである。後になって、身体障害、精神障害の分野においてもこのような形態がとられたが、知的発達障害の分野においてが一番早かった。

・1991年 JR等運賃割引の精神薄弱者への適用決定
ごく最近において、育成会の活動として最も盛り上がった運動は、1991年に適用が決定された「JR等運賃割引」の運動である。全国レベルの育成会の活動として非常に盛り上がった活動であった。

(2) 育成会の活動の主点

まず結成当初の育成会の活動の主点として、養護学校・特殊学級を充実させて欲しいということがあった。
育成会はもともと、学齢期の子供をもつ親たちを中心に1952年に結成された。そして、結成当初のころに集まった親御さんの子供たちの成長に従って、育成会の運動、事業の主点は変化してきたといえる。
育成会の結成以降、活動の主点は18歳以降の問題、養護学校の義務制、入所施設の充実というところに力点が置かれてきた。
生活保障として、手当・年金・扶養保険の問題が浮上し、その後、通所施設の充実、地域生活への活路という問題がでてきた。
現在の育成会における一番大きな課題は、本人部会の結成、援助ということに活動の主点は変化している。

●入所施設問題

子どもが青年期に達したときに、地域の通所施設でやるのか、あるいは入所施設を利用するのかという選択の中では、どちらかといえば親の気持ちは、入所施設に傾いている。
入所施設の充実、増設、新設の要求というのは、ある時期に止まるということではなく、一貫して育成会の、とりわけ支部レベルの親御さんたちにとって非常に大きな課題として流れてきている。

(1) 施設福祉を考える


?@「地域福祉」への対語
最近、「施設福祉」という言い方が、社会福祉系の大学においても「施設福祉論」という講義科目として少しづつでてきた。社会福祉系の大学の卒業生の多くは、経営の安定している社会福祉法人の施設に就職している。社会福祉の専門教育においては「地域福祉」が大きなファクターになるが、社会福祉系大学の多くの卒業生たちの就職先として施設が無視できない状況において、「施設福祉論」という言い方が最近でてくるようになった。このような中で「施設福祉」は「地域福祉」の対語としてでてきている。

社会福祉の専門教育の大きな流れの中で、「入所施設ダーティー論」が1970年代後半から1980年代にかけてあった。
学園紛争の時期といった方がわかりやすいかもしれない。その頃に、「入所施設ダーティー論」が吹き荒れた。入所施設を悪く言う中で、「地域福祉」が大事なんだということが、この時期盛んに言われた。
この時期に「地域福祉」が概念として華々しく登場した。

?A地域福祉の一環としての「施設福祉」
その後、「入所施設ダーティー論」が社会福祉の専門教育の中であまり言われなくなるのは、「施設福祉」も「地域福祉」の一環であるという捉え方に変化したところによる。
このような変化の背景として、一番大きかったのは、高齢者問題にあった。高齢者問題の流れの中で、新設の特別養護老人ホームにデイサービスセンターの付設が行政指導とされたことが、大きな流れの中でみると、結果として地域福祉の一環として施設福祉が捉えられるようになった背景であった。
在宅福祉が強調される流れの中で、入所型施設福祉から地域生活福祉への転換の流れがあった。
従来までの入所施設は、「施設の社会化」という概念で、これまで対抗していた。
入所施設がもっているマンパワー、設備を地域に開放していこうということある。この一番の例として、「プール開放事業」があげられる。

施設福祉の概念は、結果として通所施設、入所施設を含んだ概念として変化しているが、知的発達障害福祉は、他の社会福祉領域とは大きく相違した特徴を持っている。
「親なきあと」を考えたときに、入所施設が一番安心であるということが、他の領域との違いを強調している。

(2) 施設福祉の変遷

?@福祉施設のルーツ
施設福祉の最初のルーツは、ヨーロッパにおける「救貧施設」にある。その時代における判断基準は、労働力があるかないかということであった。このことが、それ以降もずっと引っかかりになってきている。
それに対して知的発達障害福祉の領域においては、「指導・訓練・教育」というスローガンがずっとついてまわった。
入所施設の流れの中でとりわけ大きいのは、大規模コロニー化において明確にでているのであるが、社会の暮らしから隔絶するところに原点があった。ただし、この問題を日本の親御さんに説明することは、非常に難しい。

社会で貢献できること(就労して、税金を払う国民になること)が、最大の目標とされた。
社会の税によって賄われる施設は、最小の運営費という観点が、原点としてある。
家庭で介護する人を、社会の労働力として活用するということが、入所施設の視点としてある。
つまり障害をもつ人を抱えている家庭においては、だれかがその人の面倒を見なければいけない。その面倒を見なければいけないという構造を入所施設を設けて、今まで面倒を見てきた人が労働力として社会に活用できるという観点が、入所施設を容認してきた大きな原因になってきたと考えている。

?A現代国家の社会福祉施策としての入所施設
日本においては、19世紀末に労働力として期待できない存在としての知的発達障害者問題が顕在化してきた。
そういう視点から知的障害をもつ人を枠から外していくという構造があった。そうして外した人たちを何とかしていかないと社会自体が混乱していくという論理の社会施策の中で、この問題は顕在化してきたといえる。
日本においてはとりわけ、1970年代に入所施設は量的に拡大した。この時期は、高度成長期を背景としてはらんでいて、福祉に国家予算を使う選択の中で、一番の選択とされたのが、入所施設を数多く作るということであった。
それまでの入所施設は、どちらかといえば選別主義をとってきた。つまり、その施設で指導訓練することによって社会にでていけるようになるかどうかという基準において、社会に出ていける見込みのある人を入所させていたのである。

ところが施設が量的に拡大する中で、施設にいる人の重度重複化という状況が生じ、施設が法律上もっているのは通過施設という性格であるが、結果として生涯施設化としての道をたどっているのである。
生涯施設化は、親の側からすると、入ったら出てこなくてよいわけであるから、これほど安心なことはない。親からすると、施設は法律にのっとった非常に安心な存在なのである。

日本において入所施設の整備が量的に拡大した頃は、ヨーロッパやアメリカにおいては、徐々に脱施設化が進んできた時期であった。それに対して、日本は欧米に追いつけ志向の中で入所施設を整備していくという方向をとった。しかし、施設を作るには作るのだが、結果として最高レベルが最低レベルとされるように、生活の質が大変弱い。そしてプライバシーの遵守からはほど遠い暮らしぶりであった。
入所施設が、通過施設であるという概念に対して、かなり長期間利用する場に変化していく中で、プライバシーの問題やQOLの問題が大きな問題として指摘されるようになった。これは、通過施設のままであったら指摘されなかった可能性があると考えられる。

“誰が、入所施設を希望したか”という問題は常に残っている。知的な障害をもっている人の“障害特性”を周りの人が一方的に判断して、親御さんが入所施設を希望するという仕組みになっている。都道府県知事、市長が措置するという形が基本的な仕組みであるが、都道府県知事、市長が強制的に入れるというなく、親御さんが希望しているということになる。
本人が希望して入ったという入所事例はほとんどない。

?B地域福祉と入所施設
日本において、親御さんに地域福祉を説明するときに、入所施設の方が安心だという安心切符を払拭させるまでの力は、まだ現実にはない。
1993年の地域福祉元年に老人・身体障害者は、町村に措置権限を移譲されたが、知的発達障害者については見送りされた。その理由の一つは、数が少ないからという言い方がされた。数が少ないので町村のレベルになると無視されてしまうだろうということであった。
このような流れの中で、小規模作業所が、養護学校高等部の卒業者の進路として50%を超えるぐらいの多くの数が整備されてきている。これは、結果論としてこうなったという言い方の方が正しい。養護学校を卒業しても法内の認可施設としての通所施設は非常に数が少ない。結果として、親たちは小規模作業所を作り続けるしかなかったのである。
そういう意味で言えば、養護学校義務制を一つの境として、地域で学校へ通うことができるようになったことは、ある意味では親の地域生活に対する自信になっている。その延長線上で昼間の日中活動を保証する場として、自分たちで一生懸命小規模作業所を作ってきたのである。

しかし不安の部分も非常に大きい。小規模作業所は通所の認可施設に比べて良くない条件の下で行われている。養護学校は、国の施策の中で非常に整備が進んでいるが、冷暖房、教室の明るさなどということで言えば、小規模作業所のそれは、かなり下回る。このような落差は、親にとっても非常に大きな不安のもととなっている。不安のもとというのは、親の子供視から来ている。知的な発達障害をもつ子供は、親にとっていつまで経っても子供でしかないのである。
そのようなことから、親の通所施設に対する意識として、大人の養護学校という感覚がついてまわっている。親の不安とは、学校に卒業年限があるように、ずっとこの小規模作業所でやっていけるのか、通所させる条件が欠けてきたときにどうしたらよいのかという不安である。

例えば親が高齢化してくると家事が非常に難しくなる。あるいは、かなりの数の通所施設や小規模作業所においては、親があるところまで通所の手伝いをしなくてはいけない。こういうことができなくなったときにどうしたらよいか、という不安が親には常についてまわる。結果として入所施設に比較すると、地域における資源というのは頼りないというように捉えられている。
その結果として、入所施設の待望という形になっているのである。また、地域での資源も、自治体によってかなり格差が激しい。

(3) 公立施設について

知的発達障害福祉の分野において、大きな課題となっているのが公立施設の問題である。
1939年をピークとする戦前の精神薄弱者保護法制定運動があった際の、施設体系の定義は、国、地方自治体が直接行わなければ難しいという考えが示され、これがひとつ根底にある。
そしてもう一つ、戦後の1947年に制定された、児童福祉法の解釈の問題がある。法律上、そのまま解釈すれば施設は、都道府県が作らなければいけないという読み方になる。精神薄弱児施設は、まず都道府県立を中心に建てられている。それが公立施設を多く建てていった一つのポイントである。
そうして、1970年代のコロニーブームのときにおいては、都道府県が競ってコロニーを作った。ただし、多くの都道府県においては、事業団を設立して、100%地方自治体出資の形態で作られた。実体的には、従来までの法内施設とは大きな違いはないと周囲からは見られていた。
身体障害者においては、極端に公立の施設が少ない割合なのに比べて、知的発達障害者においては、その割合が非常に高いレベルになっている。

●知的発達障害福祉を中心としての最近の動向

障害者福祉の波は、大きく変化しているが、その波になかなか知的発達障害福祉がついていけないという現状がある。
現在は障害の種別を問わない方向で、障害者福祉を組み立てていこうという大きな流れがある。しかし、実際には他の障害分野と協調して何かをやっていこうという流れにはまだなっていない。

国際障害者年の初期の頃は、国際障害者年=身体障害者年、障害者=身体障害者という捉え方が強かった。
現在の運動の中でも身体障害者団体等は、知的発達障害については親が出てくるのであまり問題にしないという意識が根強くある。そういう意味では障害者の仲間にまだなり得ていないのである。
親からすると、自閉症、学習障害といわれた方がより安心する。少なくとも精神薄弱とは言われたくないということが少なからず親の心理の中にある。
障害のある人という言われ方の中においても、かなり区別化されている。障害のある人同士の差別感の方がより強いのである。
障害種別を問わずにやっていこうということは、根底において難しい問題を抱えているのである。

日本においては、介護を受けて生活しているというのは、たぶん自立をしているとは認めていないだろう。それに対して欧米では、介護を受けながら自分の生活の質を高めている障害をもつ人については、十分自立しているとみなされている。
日本において、このような現状をどう踏み越えていくかということが、この大きな流れの中での、大きい問題である。

●育成会の今後の展望

(1) 入所施設問題

「地域で『あたりまえの生活』をする」方向性をとりわけ目指している。
日本においても、地域福祉の流れの中で「〜事業」というように、その片鱗は見えている。しかし、「〜事業」というのは、あくまでも補助である。これは入所施設、法内の通所施設がもっている措置という形態とは財政的に大きな違いがある。
何が安心かということでは、どのようなお金の付けられ方がしているかということで親は判断する。
地域で生活することを支えていくことにおいて、様々な活動への財政形態は大きな要素となる。

措置という言葉に対して、まず火がついたのは保育所の問題からであった。保育所の問題は遅かれ早かれ契約による利用という形態に変化していくだろう。
介護保険が最終的にどのような体系に収まるかまだわからないが、最初に何をもって検討が始められたかということが大きなポイントをもっている。
そのような意味からすると、介護保険も現行の医療保険と同じような構造の中で高齢者の介護問題を解決できないかというところにポイントを置いている。

このように考え方として、幼児と高齢者の領域では、「措置」とはっきり離れつつある。措置という形態が残るのは、身体障害と知的発達障害、生活保護の領域である。最終的には、生活保護法による施設だけは措置による体系が残って、あとは医療という形態に変化していく流れが介護保険の構想の最初にあった。
措置形態が知的発達障害においては果たしてどうなのかということを、育成会において親御さんたちと、一緒に考えていくつもりである。

地域生活は、日本においては障害の重い人にはまだ行き着いていない。横浜の「朋」のような例はあるが、まだ少ない事例である。
親は地域生活ができるのは、障害の軽い人だと考えている。
障害の重い人も地域生活をしていける、そこには当然介助、援助が必要なのであるが、援助されることは決して恥ずかしいことでも、仕様がないということでもないということをどうやって親たちに伝えていくかが大きな課題である。
また、もう一つ、親がずっと面倒を見ていくべきだという考え方をどうやって払拭していくかということが大きな課題であると考えている。

(2) 運動団体と事業団体と事業経営団体の問題

都道府県育成会及び支部育成会が運営する認可施設は、約100施設ある。43の育成会が直接施設を運営している。そのうち、入所施設は26ヵ所である。
ここ10年ほどに作られた入所施設は、ほとんどが親が関与して作っている施設である。そして、結果的に親たちがお金を出しあって作られている施設が、ここ10年では圧倒的多数である。とりわけここ1〜2年は自閉症の子どもをもつ親たちが中心になって作った施設が多い。

ここで問題となってくるのは、そのお金が本人がもらっている障害基礎年金が積み立てられたものであるということである。親からすると、障害基礎年金も親のお金なのである。
かなり高い年齢になっても、いつまでたっても子供、自分の付属物という考え方からなかなか脱皮できないでいるのである。
欧米では、子供は子供、親は親という個人主義的なところがありながら、親子としての精神的なつながりがあるということを日本の親たちにもアピールしていけたらと考えている。


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