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知的障害者福祉研究報告書
平成7年度調査報告  〜精神薄弱者福祉研究報告書〜


第2章 ビデオ制作関連調査―ワーキング議事録―

2. スウェーデンにおける知的障害者サービス

―スカーラボルイ県の改革から― No.2

愛知県心身障害者コロニー発達障害研究所 三田 優子
1 スウェーデン
スカンジナビア半島の東部を占め、南北に1,574km、東西に499kmの細長い国。国土の7分の1は北極圏に属している。面積は日本の1.2倍、このうち森林が約50%、耕作地(畑、牧草地)9%、湖沼河川が9%を占め、湖沼の数は約96,000もある。
気候は、首都ストックホルムがグリーンランド南端とほぼ同緯度であるもの、ツンドラや氷河に覆われることなく豊かな森が育っている。それでも、冬はマイナス15度くらいまで下がり、日照時間も極端に短い(最北部では12月〜1月半ばまでは太陽に会えない)し、白夜の頃は50日以上太陽が沈まない。
総人口は約866万人(1992年)で山梨県の総人口(1994年)と同じで、そのうち166万人(1995年)が首都ストックホルムに集中している。人口密度は1平方キロメートルあたり19人(日本は334人、いずれも1992年データ)である。平均寿命では日本に次いで、男性3位、女性4位(1992年)と長寿国で、65歳以上の人口割合はスウェーデンで17.3%、日本は14.1%(1995年)である。社会保障面でも先進国と言われる。ちなみに会計年度1986年でGNPのうち社会保障支出額の占める割合は、日本が12.7%に対し、スウェーデンは31.3%と世界1位で、これを国民一人当たりの給付額にすると、日本28万9千円、スウェーデン43万5千円(1スウェーデンクローネ=13円に換算した場合)となる。
通貨は、スウェーデンクローネで、現在1SKr=12円である。物価は、日本までとは言わないまでも、アメリカや英国に比べ高く、しかも21%の消費税がかかるので、余計に割高に感じるかも知れない。また、公務員の人に尋ねたら給料の約半分が税金でもっていかれるとのこと。しかし、それに対する不満は結局誰からも聞かれなかった。
スウェーデンは、武装中立政策をとる中立国として知られ、第一次、第二次世界大戦でも中立を保持した。また、政治形態は立憲君主制、国会は一院制、議員の任期は3年(比例代表制、直接選挙)である。ちなみに国会議員の3割以上は女性議員である。投票率は90%を下回ることがなく、スウェーデン人の政治への関心は、非常に高い。
スウェーデンの経済は、1990年代に入って経済成長率は次第に低下し、企業の倒産もおこった。が、94年に入ってまたもちなおした。スウェーデンは失業率の高いヨーロッパにあって、優等生を保っている。現在、農・林・漁業に従事する労働人口は5%、鉱・工業が30%、その他65%で、労働人口の45%は女性である。現在、化学、機械、エレクトロニクスが主要産業となり、車のサーブやボルボは日本にもなじみがある。

2 スカーラボルイ県
スカーラボルイ県は2つの湖に挟まれた、スウェーデン南部に位置する県で、その面積は約8,000kmで、静岡県や兵庫県とほぼ同じ大きさである。また、人口は約28万人で春日井市とほぼ同じくらい。スカーラボルイ県は、スウェーデン全27県の一つで、17の市町村から成る。最小の人口規模は約6000人、最大は48,000人である。うち「精神遅滞者援護法」によりサービスを受けるのが1,000人強(人口比3.6%)という。
スカーラボルイ県は、知的障害をもつ人たちの福祉に関して古い伝統がある。1875年にできた「ヨハネスベルイ」という入所施設が開設され、スウェーデン内の施設のいくつかはこの施設をモデルに建設されたほど有名な施設であった。一時期はスウェーデン国内で最大の施設となり、650人の入所者を抱えたこともある。

3 障害者福祉、変革への流れ

1968年 精神発達遅滞者援護法
1980年 スカーラボルイ県「プライマリケア委員会」
1985年 新援護法 (7月1日施行、つまり入所施設への受け入れストップ)
1986年 スカーラボルイ県
「県議会で1991年までに施設の完全閉鎖を決定」
1995年 特定の機能障害をもつ人の援助サービスに関する法律

[施設閉鎖にあたって]
*住居の基準
当時、3施設(公立のヨハネスベルイと民間2施設)に入所していた約300人の住まいと職員約600人の行き先を用意すること、が改革決定と同時に準備された。その内容は、「施設で暮らしている人々は、全員住まいがないものと考える。それゆえ、彼らに対し、施設外に快適な住まいを用意しなければならない。住居は、世間一般の住居の基準を満たすものでなければならない。就労の機会が保障されなければならない(できる限り、彼らに適した仕事のある様々な会社に就職できることが望ましい)。有意義な余暇を過ごせるべきである。」(1986年:スカーラボルイ県議会見解文より)
*職員の行方
一方、職員は施設閉鎖決定の直後から、各自職探しをはじめ、新設のグループホームや医療ケアの仕事に関する職業訓練を受ける職員もいた。
*経済的問題
これまで入所施設に関連していた財源を新しい地域サービスに再配分することとし、入所施設からの6000万Skr(94.4現在1Skr=13円:約7億8千万円)の他に、県議会はあらたに3000万Skr(約3億9千万円)の新予算を追加した。つまりこの事業に総計9000万Skr(約11億7千万円)もの予算が投入された。県議会が事業実施のためにとったこの措置の予算内で、施設の閉鎖は実現可能になったのである。
ここで注目すべきなのは、1989年に予算配分の方法が変更になったことである。例えば、グループホームを必要とする場合、グループホームを新設するために必要な費用から算出するのではなく、その障害のある人が関わる地区の委員会に、入所施設を出る人ひとりにつき、総額約35万Skr(約455万円)を予算配分することになった。この金額は、障害の程度や新しい住まいの種類に関わりなく、すべての人に適応された。
本人とかその家族とともに、ひとりひとりの地域生活のための計画案が作成された。つまり、どこに住みたがっているか、適当な住まいの種類は何か、引っ越しの日はいつが最適か、等で本人の希望が最優先された。5人でグループホームで住みたい、という場合は455万円×5名分=2275万円が予算配分されるわけである。
1987年から1991年の間に、70人がグループホームから近くにあるサポートつき公営住宅や自分の持ち家に引っ越している。グループホームにいたその70人に使用していた経費は、約3000万Skr(約3億9千万円)である。よって、この事業に割り当てられた予算内での達成が実現可能となったのである。
このような予算配分の方式によって、市町村の委員会は予算を早くから知ることができた。そしてこの結果、各市町村のプライマリケア委員会は、知的障害をもつ人に関わる保健医療サービスや歯科医療、福祉に必要な予算をひっくるめて市町村単位で獲得できることになっていった。それは、各市町村の工夫や独自性を生む結果となった。
なお、入所施設の再利用が決定されている。一つの施設は、住宅会社が買い取り保育園として建て直し、もう一つの入所施設は施設経営者が交代し、現在は民営の精神科ケアを行なう病院になっている。さて、ヨハネスベルイは売却され、その立地条件を生かして、住宅、商店街、保育園、学校、スポーツセンター、レジャー施設などの建設が予定されている。売却するまでは、難民受け入れセンターとして入国管理局に貸すことになっている。売却によってできた資金で財団を設立し役立てることも決定されている。

4 住むところ、昼間過ごすところを確保する

グループホーム + デイリー・アクティビティー・センター

例:自分が暮らしやすいところ
何度でも引っ越しできる
入居者が主体者
個性を大切にする

例:自分にあったところで好きなことをする
生活費のために働くのではない
強制されたり、叱られたりしない
楽しい仕事である

[共通すること]
1) 権利擁護の精神が貫かれていること
2) メディカルモデル、あるいは専門家モデルは存在しない、してはならない
3) 生活の質の向上を常に追及する
4) 地域で暮らすのが当りまえ(1〜3が必須条件かも知れない)
5) 何よりスウェーデンの社会、市民の障害者やマイノリティーへの意識がはっきりして ること(障害をもっていることが不利になってはならない、支えあうのが地域である等)

そして、3つめの柱をあげると  + コンタクトパーソンとグッドマン

*コンタクトパーソン:1992年、スウェーデンでは国をあげてのキャンペーンを行なう。

*グッドマン:法律で定められた「後見人」のこと。地域の有力な人がなることが多い。

このように、市民を巻き込んで、ソフト面での支援の充実をはかることは非常に重要である。

5 1992年、閉鎖完了。そして―

スカーラボルイ、あるいはスウェーデンでも、多くの人が「あるレベルの人はこの変革にはひっかからないのでは?」と思っていた。しかし、「最も重い人、問題行動のある人、施設の奥の奥にほぼ一生いる人を、地域に出さなければ、このプロジェクトの意味はない」と励ましあって、結局完了させてしまった。あのヨハネスベルイを閉鎖させたのか、というヨーロッパでの驚きは他の国にも大きな衝撃と励ましとなったという。
1992年、すべての入所者が施設を出て、この変革は完了した。しかし、これで終わりだとはスカーラボルイ県は考えている。プロジェクトチームの主要メンバーから、事業全内容が1994年6月の県議会で報告された。そこでは、報告書“When All Residential Institutions are Closed”(邦題:すべての施設が閉鎖される時)をまとめたケント エリクソン氏らプロジェクトのメンバーが初めて全県議会議員に対して、施設閉鎖の報告を行なった。はじめにエリクソン氏が15分間全体の概要と背景等について報告説明した。
次に、インゲエルド エーマン氏が、「家で普通の人として暮らすことの重要性」を訴え、そのためには「どうしてもコミュニティの援助が必要」であると述べた。障害者の生活を援助することは同時に「コミュニティにとっても意義あること」と述べ、入所施設に代わる代替の生活の場について実情の報告、説明を行なった。最後に、このようなプロジェクト実施には、広い視野としっかりした身通しが必要であることを強調した。
シルカ ジィルバートソン氏は、障害者本人へのインタビュー調査の結果から、障害者自身がこの入所施設の閉鎖と新しい生活をどう捉えているかを報告した。本人からの発言のなかで繰り返しみられた発言をキーワードとして分析し、結果「自分だけのプライベートなスペースをもったこと」「自分でさまざまなことを決めること」が彼等にとって大きな変化であり、喜びであることを紹介した。
また、バルブロ・トゥベッソン氏が家族への調査の結果をもとに、この大きな変化が本人にとってあるいは家族にとってどんな意味があるのかを考察した。この改革にあたっての家族への対応は、不安を取り除くために説明と話し合いを熱心に重ねることであったことを紹介し、また障害者福祉を推し進める過程で、家族への配慮やアプローチが不可欠であることを強調した。
最後に再びエリクソン氏がまとめを行なった。すなわち、

1) 「施設からコミュニティーへ」という改革がだいたい終わってみて言えることは、基本的なことであるが「自分の家で決め、自分で生活することを保障する」ことの大切さで、これは本人にとっては革命に近い出来事であったこと、
2) 彼らの生活を「どう援助(サポート)するか」が、今後も継続するわれわれの課題で、あれこれ面倒見すぎる(taking care too much)こととは区別されるべきであること、
3) 近隣住民に対する意識調査では、障害者が近所に住むようになったことについて、1割の住民が「快」、もう1割が「不快」、そして6割が「どちらでもない」というニュートラルな結果であったこと、
4) プロジェクトはこれで終わりではなく、継続することが重要であること、
である。
フロアからの質問は、
・地域で生活する際に必要な生活費や仕事等の経済保障について
・今後の具体的な課題について
・グループで生活することがベストなのか
・家族に、全体の組織構造をどこまで説明したか、どのような情報を伝えたか

等で、その質疑応答では、「仕事を確保することも大切であるが、何よりも本人の自己決定権をもっと保障するべき新法が必要である」と訴え、それを政治の場面から盛り上げてほしい旨を要請した。また、家族も障害者の地域サービス援助の対象として配慮されるべき存在であると回答した。そして、「知的障害者本人がグループで住むのを好むのか、という問いがあるが、グループホームは一つの選択肢であっていくつもの代替サービスのひとつであってすべてとは思わないでほしい。しかし、グループで生活することの良さがあり、障害をもって地域で生活するとき、精神的に支えあうことの重要性をグループホームが示していることは事実である」と説明した。
最後に、議長から、プロジェクトチームへの感謝の言葉とともに、ニュートラルな反応を示した60%の住民の意識を今後、ポジティブなものに変えてゆくために、議会も全面的に支援協力するということを確認して閉会した。
翌日の新聞には、このプロジェクトの報告のことが記事となっており、特に障害者本人へのインタビューについてのシルカ ジィルバートソン氏の報告が大きくとり上げられ、このプロジェクトの意義が書かれていた。





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