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知的障害者福祉研究報告書
平成5年度調査報告  〜精神薄弱者福祉研究報告書〜


第1回 精神薄弱者福祉研究会 資料

米国精神薄弱者福祉事前調査報告書(抜粋)

オレゴン大学

○ディビッド・マンク博士 教育学部、特殊教育・リハビリ学科、助教授

障害者をどのように統合していくかが課題となる。
歴史的に施設に隔離をしていく制度は、全米的に変化している。しかし、単に施設を閉鎖することは、障害者を施設から外(社会)に出すことにはならない。
重要な点は、障害者を地域社会に送り出し、生活、仕事、遊びのすべてにおいて地域社会の一員となることである。
障害者の目標は、障害者がほとんどいないホームで生活できるようになることである。

オレゴン州の精神薄弱者施設は、その規模が大幅に縮小されたものの、依然として施設には数百人の精神薄弱者が収容されており、その人達を出すために、小さなグループホームや家を必要としている。

10年〜15年前までは、障害者の一部は仕事に向かないと考えられていた。しかし、現在、すべての障害者が働く機会を与えられるべきと考えている。

私のプログラムでは、雇用者が障害者を労働力として進んで受け入れる意思があり、また可能であり、必要な宿泊設備を提供できることを認めている。
このプログラムで扱われる障害は、発達障害、精神薄弱、脳の損傷(脳外傷を含む)、精神病、および身体障害が含まれる。

関連立法として、最近連邦議会を通過した、アメリカ人障害者法に(ADA)がある。これは、雇用、アクセス(車椅子使用者の移動)、情報(テープや点字など)など、統合化により、一人一人が行えるようになることを定めている。

障害者に取り組む場合、最も重要な点の一つには、一人づつ対処することである。

過去において、診断により同一グループの特徴を有する障害者は、あたかも同一のように、グループとして処理されてきた。現在、それぞれの障害者の関心、ニーズ等を調査している。この個別化には、雇用と生活上の配慮が含まれる。

重度の障害者を含め、障害者の目標は一般の人々と同じものである。
すなわち、仕事を持ち、生活の水準を高め、十分な所得を得ることである。

グループ化はゴールが見えなくなる。統合化はイコール個別化であり(職場でも、地域でも)、そのための施策の変化が求められる。

質問:アメリカに起こっている変化について

回答:現在も変化しつつある。変化の主要な推進力となっているものは、障害者および家族からの圧力である。
その場合、基礎となる重要なことは、何が可能かを家族に説明することである。
このため、プログラム・スタッフは、まず「家族リーダー」を見つけ出し、教育することである。それらのリーダーは、情報およびアイディアを他の家族およびコミュニティーに伝えていく。プログラム・スタッフは、直接の説得、ビデオ、資料を通じて人々を納得させ、成功したプログラムを見せていく。

地域社会に障害者を受け入れる作業は、まだ終わっていない。専門家が変わり、国内情勢が変化するにつれ、多くのことが達成されてきた。

10年前には、20名のグループで構成されるホーム、および障害者の雇用のために、10名のグループが形成された。現在、個別化により、障害者を完全に地域社会に受け人れる努力がなされている。これは全体的な変化である。

個別化に対する支障の一つは、依然として、補助金がグループ・ホーム等、グループ・プログラムから入ってくることである。この結果、エージェンシーは補助金を受けるために、それらのプログラムを利用者で満たしている。政府がグループ・ホームを助成する限り、誰かがグループ・ホームを運営することとなる。

例えば、オレゴン州は、障害者ワークショップ(仕事場)のために補助金を交付している。施設利用者の各々のニーズに係わらず、同額の補助金を利用者に与えている。

しかし、一切を含めた作業については、当初相当な費用がかかり、その後は全く費用がかからないかもしれない。そのようなプログラムに、政府が補助金を交付するのは困難かもしれない。

どのプログラムを変更させる必要があるかについては、政府で働く人々のリーダーシップが必要となる。

コミュニティーに障害者を受け入れることは、単に職に就かせることではない。もし、ジョブ・ディベロッパー(職業開発者)が、ある会社の社風を理解し、他の従業員の仕事について理解している場合、ジョブ・コーチは単に、「あの仕事をやりなさい」とは言えず、通常の支援と共に、仕事を考え出すことになる。

「通常」の支援は、形成していく必要がある。単に障害者を仕事につかせ、援助が自然に増大していくことを期待することは出来ない。

○ロズ・スロビック 教育学部、特殊教育プログラム、リサーチ・アシスタント

障害児の親は、例えば、遠く離れた養護学校ではなく、近隣の学校で、近所の健常児、および兄弟と一緒に学習できるように援助してくれることを望んでいる。

障害児が、通常の学級、および活動に参加し、必要に応じて援助を受けることを期待している。親は大きくなった障害児の息子や娘に対しても同様のことを望んでいる。
サポートは隔離された所で受けることではない。

親の提唱により学校制度も変化した。障害児の親は、施設のみならず、コミュニティーにおいても、安全性と安定が得られることを他の親たちから学んだ。

彼女自身も家族と話し合い、何が可能であるかを説明し、障害者にとって可能なことを実施するための計画に親を参加させている。

そのような計画策定のための会合には、障害者、その家族、専門家、並びに障害者の隣人、親族、友人を含む専門家以外の者も加わっている。会合は、家族の家、または他の非公式の場所で開かれる。

彼女は、会合の参加者全員に、障害者の強さおよび可能性について話し合うよう求め、障害者の夢について尋ねると共に、出来るだけ障害者が回答するよう求める。また、親にも将来に夢を持つよう依頼する。
例えば、障害者に「何をしたいのか、誰と一緒にいたいのか」と尋ねる。この会合における討論から、仕事および生活に関する計画を策定する。

例えば、近所の健常児はこのように言うかもしれない。「あの子(障害児)は、僕と一緒のクラスにいたいのだし、僕は助けてやるつもりだ」と。
費用がない(足りない)場合も、皆で考えていく。職場探し、州への投書、居住地探しなどを計画し、企画、実行していく。現在は変化の最中である。変化を望み、変化は起きている。何が可能か、何が出来るのかを話し合う。

これは過去になされたことと比較して、著しい変化と言える。過去の職場や居住地の計画は、障害者が加わることなく策定され、主として、医療専門家が医学的解決に重点を置いて策定したからである。

計画を実施する場合、障害者のネットワーク、および友人のネットワークを利用する。これらの人々は、官僚との交渉、ロビー活動、コミュニティーにおける他の人的資源、および財源の利用において、障害者の親を助けることができる。この結果、障害者のために制度が変更されていく。

質問:専門家が、差別のある分離プログラムではなく、統合プログラムへと考えを改めるようになった原因は何か?

回答:一例として、1950年代の初期に、政府の援助なしに、親達がコミュニティー・サービスを開始した。
その後、ほんの少数の専門家と親達は、障害者が地域で暮らせることが判り、地域に住む人達と施設に居る人達とも障害の程度はあまり変わらないことが判った。

その後、専門家が方針および手続きについて考案し、コミュニティー・サービスの提供は政府のプログラムとなったのである。

質問:これまで、親は障害児を施設に収容することを勧める専門家の助言に従っていた。
しかし、その後、この助言を受け入れることを止め、拒否している。何故そのように変化したか?

回答:いつの時代でも、一部の親は、その障害児を施設に収容することを拒んできた。
一部の家族、および専門家は、障害児が地域社会で生活することが出来、施設に収容する必要がないことを認めている。変化は、若い人々、例えば、若い親達から生じており、その障害児は公立学校で教育を受けている。

重要なことは、多くの不利なグループに対する市民的自由、および公民権の増大による社会的な意味である。社会におけるそれらの一般的な変化により、人々は、次第に変化を受け入れるようになったのである。

10〜15%の人々において、その家族に障害者がおり、あるいは他に障害者がいることを知っていても、誰も、公共の場所では障害者について話し合わない時代があった。公民権運動が浮上するにつれ、人々は、障害者について関心を有する多くの人々が存在することを知った。それらの人々が団結することにより、力を得た。一部の障害者が一般の人々と結束することに成功し、専門家は障害者を分離させて置くことが出来ないことを認識した。

障害者が地域社会で一般の人々と一緒に住む方が良く」、また「私のやることを変えなければならい」と専門家が公然と言うことは難しいことである。
とは言え、徐々に変化している。過去において、専門家は障害者の保護者であり、社会の保護者であったが、その仕事は障害者を隔離、阻害することになっていた。

現在、専門家は障害者を支援することがその任務であることを学んでおり、これは、専門家が本来訓練されたこととは違った役割と言える。

障害者に対し、何を希望しているかを尋ねた場合、いづれの障害者も施設の入所は望んでいない。ワーク・ショップに住む障害者は、コミュニティー内で働くことに関心を持っている。

○ラリー・ローズ博士 教育学部、特殊教育プログラム、準ディレクター、助教授
(同プログラムのディレクターは、ロバート・ホーナー博士)

15年前までは、雇用サービスは、非常に軽度の障害者が利用出来るものであった。しかし、研究や観察によるデータは、どの障害者も働くことができることを実証した。人々の価値観が変わり、障害者のすべてが働くべきであると考えるようになった場合、残された唯一の問題は、これをどのように実現するかということである。

援護就労プログラムは、1984年に開始した。これは、連邦のイニシアティブによるもので、障害者が地域社会において、通常の仕事に就けるようにしたものである。当初障害者は、ワークショップの仕事から、地域社会の仕事に移され、専門家の仕事は、雇用主に対して障害者の採用は企業にとっても良いことであると気づかせることにあった。

専門家は、雇用主が質問するであろう事項について、信用できる回答を与えることで納得させた。例えば、雇用主が障害者である従業員の生産性に懸念している場合、通常の従業員と障害者である従業員の生産性の差に対し、プログラムに基づいて支払いをする、と回答した。また雇用主が、障害者である従業員に行動上の問題があると苦情を述べた場合、政府機関は、当該従業員を監視するための監督官を派遣した。

援護就労プログラムを上記のような方法で運用した結果、施設利用者は、低所得の初歩レベルの仕事が与えられたが、これは良いことではあったが、不十分であった。

最近、専門家は雇用上の質問に答えることにより、雇用主において核心となる問題について処理できないことを知った。例えば、雇用主は、その労働力に精神薄弱者を迎えることは好ましいことと述べたものの、労働力全体として見た場合、文字が読めない人が大勢出現することを問題にした。

このことから、援護就労プログラムの専門家は、会社全体にとって価値のある何かを見つけ出すべきことを学んだ。例えば、発達障害者において用いられている同一の訓練技術を、労働力全体に利用することは有益なことである。また会社は、個々の障害従業員に焦点を当て、その従業員の成績向上を目標とすることは良い方法であることを認めた。

◇事例:オレゴン州においてNECはテレコミュニケーション部門を置いている。
1985年、NECは「良い企業市民」(good corporate citizen)となるべく、同社のための援護就労プログラムを要請した。NECは、重度の障害者を8名を採用した。
これには、精神薄弱者、精神薄弱と身体障害を合わせ持つ者、および聾唖者が含まれている。この8名は、1993年現在、継続的に勤務している。

NECは、オレゴン大学と共同研究をしている。例えば、プロジェクトの一つにおいて同僚の短時間の訓練によってコミュニケーションが向上すれば、仲間の従業員によって障害者を訓練できるようになることを示した。NECにおける最初の従業員採用が成功したことにより、現在、NEC内の更に多くの部課に障害者が関わってきている。

障害者が仕事に就いた場合、その成績およびコミュニケーションの技術が一貫して上達することが認められている。オレゴン大学は、常に専門家を置く必要がないことを学んだ。

◇ポートランドにある、ワッカー・シルトロニク社は、自社が「大きな社会的解決の一部」となるために、施設の障害者の採用を希望していた。そこで同社は、20年間施設にいた障害者を採用した。同社は、自らこの障害者を面接、採用し、監督している。数週間にわたり、シルトロニク社が安心でき、また同社のスタッフを訓練するために、オレゴン大学のスタッフも関与した。

シルトロニク社に3カ月間勤務した後、前記の従業員は、それまで生活していた施設から退所し、障害者のルームメイトと共に自活している。

NECおよびワッカー・シルトロニク社は、重度の障害者のために、ワークショップにすら入れない障害者を採用している。これらの会社は、当初、「良い行い」だとして障害者を採用したのであるが、今や業務遂行上、好都合と考えている。

両者において、もし障害者である従業員に何か問題が生じた場合、仲間の従業員が問題の解決に当たる。言い換えれば、障害者の従業員は専門家によって「保護されて」いない。障害者を採用するように会社を助けることが専門家の仕事となっている。

○ディビット・マンク博士 教育学部、特殊教育・リハビリ学科、助教授

雇用においてもう一つの重要なことは、人々が自ら選択する仕事をさせることである。
多くのアメリカ企業は、現在その労働力を多様化させている。例えば、スペイン語の地方紙と共に主力紙にも求人広告をしている。10年前に比べて、企業は多くの女性、様々な人種、大学以外の職業学校で訓練された者、および広範な年齢層から人々を採用している。

質問:施設と小規模な(15名以下)ものとは、何を指標としているのか?
居住とデイプログラムを分けることの効果をどのように考えるのか?
サポートは障害の程度、性質によっても異なるものではないのだろうか?

回答:個別化は今後の目標である。全員が出来るものではないと考えるが、専門家の変化も必要である。10年前は20名以上のグループ・ホームがあったし、20名以上の仕事場があった。それらが個別化、小規模化を遂げていった。
統合化にはプロセスを見せていくことが大切である。

定員15名以下とは法的な単位であり、それ以外の根拠はない。

経済の問題(政府の援助)が個別化には問題となる。州は月$600(約66,000円)を援護就労プログラムの費用を長期間に渡って出している。
皆が同じ費用が必要ではなく、必要額は異なると考える。

高齢者には高齢サービス局が行い、管轄が異なる。発達障害に関しては、施設の方が費用が大きい。こうした管轄を分けて行うのは、費用の定義がそうなっているからで、連邦政府の役人の頭が硬いからである。

アメリカの法律では、もし16名以上の入居者がいる場合に施設と呼んでおり16名未満である場合を「コミュニティーに基礎を置いたもの」と呼んでいる。

オレゴン州の人口は約280万人。この内、どれくらいの人々が障害者と言えるかは、「障害」の定義によるが、おおよそ5%程度である(内、重度の障害者が10%)。
人数が不明確なのは、IQテストが正確なものではないからである。

アメリカにおいて、とりわけADA法が通過した後、障害の定義は広義になっている。その理由は、もし他の人々がある人に対して障害者と見なした場合、たとえ実際に障害が無い場合でも、障害者とされるからである。

オレゴン州には、発達障害者のための州の施設は3カ所あった。しかし、現在セーラム市のフォアビュー施設がただ一つ残されているのみである。フェアビューの入居者は、1,000名から、約200〜250名に減少した。さらに、精神薄弱者のための民間養護施設が3〜4カ所あり、50〜100名を擁している。これらの施設は、過去よりも入居者数が減っている。他の民間施設は閉鎖された。

施設の規模縮小、および閉鎖に反対した主要な団体は、施設従業員の組合であるAFSME(連邦・州・自治体公務員組合)である。

施設の収容を廃止することの他に、施設を改善する努力がなされた。しかし、オレゴン州および他の州でも、それらは成功していない。障害者が施設に住んでいる限り、施設は全面管理に追いやられ、個人的な選択から離れることになる。

施設を定義することはそう簡単ではない。もし入居者数が多い場合、明らかに施設と言える。しかし入居者数が少なくても、入居者の生活状態から施設と言える。
施設とは、各人の個性を認めないまま人々をグループとして処理する組織である。
選択の余地が無ければ、5名でも施設と言える。
施設でないものは、人々のニーズに応えると共に、その力を発揮できるようにし、そこに住んでいる人数を問わないものである。

オレゴン州には、130カ所の「養護居住プログラム」があり、これには個々のアパート、共有アパート、およびグループ・ホームが含まれる。20年前よりは進歩したが、まだまだ足りないのが実情である。

オレゴン州政府は、オレゴン大学とは別に、コミュニティー・プログラムに補助金を交付する。コミュニティー・プログラムは、民間の非営利ボランティア組織、例えば、マッケンジー・パーソネル・システムズなどのような団体により運営される。これは、他の州でも実施されている典型的なものである。

オレゴン大学のマンク博士を中心とするグループは、研究と共に、コミュニティーの要員(会社員、コミュニティー・プログラムの実践者)および大学院生を訓練し、改革していくものを実践している。連邦政府の補助金は、研究助成、および改革の資金として、オレゴン大学に交付されている。また、州政府との契約で、グループ・ホームの評価や企業のサポート等、様々な目的のために大学に交付されている。










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