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活するが長続きはしなかった(22年間)。その後、後漢も滅び、中国は三国時代、五胡十六国時代、他、内部分裂状態が続き西域の支配は唐の時代まで途絶した。この間、滅びた匈奴に代わり鮮卑(モンゴル系またはトルコ系)、柔然(モンゴル系騎馬民族)、高車(トルコ系)、エフタル(トルコ系遊牧騎馬民族)、突厥(トルコ系遊牧騎馬民族)が西域のオアシス一帯の覇権を競い、特に突厥が強力な遊牧国家を築いていた。

〔6・7世紀〜〕

618年に唐が建国され、640年に突厥の支配を受けていた麹氏高昌国を滅ぼし安西都護府を置いて(現在の吐魯番)、シルクロードの保全を図った。その後、約100年にわたり自ら西域の支配を行い西域経営の黄金期を迎えた。657年に突厥を滅ぼし唐の西域支配は頂点に達した。唐の時代、パミールの西では622年にモハメットが創立したイスラム教のもとアラビア勢力が聖戦(ジハード)を展開し、中央アジア地域他に一大勢力を伸ばしていた。751年、唐とアラブ(大食)人に率いられたイスラム軍の当時の二大勢力がタラス河畔で会戦し、唐は大敗を喫し後退した。以後、中国の西域への政治的進出は衰退し、18世紀の清朝による西域統一まで、およそ1千年の間、直接に支配することはなかった。この会戦以降、トルキスタンヘのイスラム勢力の進出が本格化した。アラブの捕虜になった唐兵の中に、紙すき工がおり、紙の製法を伝えた。当時、用いていた羊皮やパピルス紙に代わり紙が西方に広まった。羊皮に取って代わった紙はイスラム教(コーラン)を広めるに重要な役割りを果たした。

〔9・10世紀〜〕

907年、唐は滅び、西域のオアシス地帯から中国の政治支配が消滅した。代わって新たな西域の支配者が登場した。トルコ系遊牧民のウイグル族は、8世紀半ば頃、モンゴリアで突厥帝国の後を継ぐ遊牧国家を築いていた。9世紀半ばに、同じトルコ系遊牧民のキルギス族の攻撃を受け南下と西走をした。南下した部族は甘州ウイグル王国を成立させた。西走した部族は、トルファン盆地へ進出し、多くのオアシス都市を配下に置き西ウイグル王国を成立し、遊牧生活から離れて定住化していった。西域の住人は、古来よりアーリア系であったが、言語他、トルコ系のウイグル族の影響を受け、この西域一帯が(東)トルキスタンと称されるようになった。ウイグル族もアーリア系と同化した。10世紀後半以後、カラ・ハーン朝がタリム盆地のウイグル王国へ聖戦を行いイスラム化が進んだ。

〔12・13世紀〜〕

12世紀に入って西域は覇権が揺れ動いた。時代を異にした二つの異なるモンゴル系遊牧民族の侵入があり、支配を受けた。まづ1129年頃、モンゴリアでの活動に見切りをつけた耶律大石が一族を率い新たな新天地を西域に求めた。次第に勢力を強め1132年カラ・ハーン朝を倒し西遼(カラ・キタイ)を建国し、ホラムズ・シャ一朝を支配下に組み入れ、アム川以北、東はトルファンのウイグル王国におよぶ西域を主権下においた。イスラム教の真っ直中にいて、耶律大石以下、歴代のグル・ハンは仏教を信仰し中国文化を尊んでいたが、諸地方政権に住民の支配をゆだねていたために、支配下の西域のトルコ・イスラム文化に影響をほとんど与えなかった。1218年に、次に西域へ侵攻してきたチンギス・ハーンが率いるモンゴル軍により滅亡した。

1219年チンギス・ハーンが15万余の軍勢を率いて西征に出発し、モンゴリアの本営に戻るまでの7年にわたり中央アジアやインダス河に至る数十にのぼる都市を破壊し、数100万にもおよぶ人々が殺害されたといわれる。1271年に元(蒙古帝国)が建国され首都を大都(北

 

 

 

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