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第3章 西域の観光資源

 

1. 西域の歴史

(1) 中国、西域(新疆ウイグル自治区)及び中央アジアの年表(紀元1955年まで)(別表)

西域は、9世紀にトルコ系のウイグル人がタリム盆地を含むパミール以東に移住してその勢力を成立して以来(866年、西ウイグル王国成立)、東トルキスタンと称された。パミール以西の、近年に旧ソ連から独立したカザフスタンその他の国々がある中央アジアと呼ばれる一帯は、西トルキスタンと称されていた。東、西のトルキスタンは、「トルキスタン」(“トルコ人の国”)と称されていた。

西域の歴史は、7世紀以後にアラブ(大食・タージ)勢力や中央アジアで確立した様々な部族国家の影響を強く受けるなど「トルキスタン」の歴史としての色合いが濃い。従って、今日の西域の状況(ウイグル族、その他少数民族、清真教、清真寺、遊牧の民など)をより理解する上で、年表では「西域及び中央アジアの事項」を主体にしてある。

 

(2) 西域の略史

〔紀元前5000年〜〕

彩文土器や磨製石器をともなう原始農耕集落が形成された。紀元前10世紀頃には、城壁と灌漑網をもった幾つかのオアシス都市が誕生した。住民は、後の世紀に中国人が「深目高鼻」、「紫髯(ぜん)緑眼」と称したアーリア系の人々といわれる。天山北部では、イラン系の遊牧民スキタイ人が活躍をしていた。

〔紀元前3世紀〜〕

モンゴル高原一帯に活躍していた匈奴(アルタイ系遊牧民)が勢力を拡大し、黄河中下流の平原部(中原)を脅かすようになり、秦の始皇帝が万里の長城を築いた。

〔紀元前2世紀〜〕

匈奴は甘粛省あたりに勢力のあった月氏(イラン系遊牧民族)をパミール高原以西に放逐し、パミール以東のオアシス地帯(西域)を支配するに至った。逐われた月氏は、中央アジアのフェルガナ(大宛)に大月氏国を築いた。匈奴の強勢は衰えず、秦の後に成立した漢(前漢)へ侵攻を繰り返した。紀元前141年に即位した漢の武帝は、パミール以東の大月氏と同盟し、匈奴を挟み撃ちするべく張騫を大月氏へ派遣した。張騫の旅は苦労の連続で戻るまでに13年を要した。大月氏では、匈奴への復讐の念は薄れており同盟に応じなかった。武帝の計画は無に帰したが、張騫は中央アジア及び西域の豊富な情報を持ち帰った。豊かで珍奇な物産や特に大型で駿足の西域馬(汗血馬)と呼ばれる名馬は武帝の興味を引いた。紀元前102年、武帝は大宛へ大軍を長征させ名馬多数を入手した。

〔紀元前1世紀〜〕

匈奴の内部分裂により勢力が弱まり、漢はオアシス地帯全域の政治支配を目指して、紀元前59年に西域都護府を置き、約70年間の西域経営を続けた。しかし前漢の衰えとともに、西域は再び匈奴の支配下になった。25年に成立した後漢の時代、91年に班超が西域都護府を復

 

 

 

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