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京)に定めた。モンゴル族は、中国から中央アジアに至る世界帝国を成立させた。この間、シルクロードの状況が最も安定し、東西の文化交流が最も興隆した。《西→東:「東方見聞録」の著者マルコポーロ、ローマ法王の使者高僧カルピニ、イスラム地理学、投射火砲(回回砲)、暦学、天文観測器具など;東→西:陶磁器、製陶技術、木版印刷技術など》強勢を誇ったモンゴル帝国も14世紀初めには内部抗争から諸ハン国に分裂した。《パミール高原を境に西チャガタイ・ハン国(首都サマルカンド)、東チャガタイ・ハン(首都カシュガル)など、後に西ハンは東ハンの攻撃にあい衰えた》

〔14世紀〜〕

1368年、元朝が倒れ蒙古高原に退いた。この頃、東チャガタイが西チャガタイを滅ぼすなど、チンギス・ハーンの子孫たちの間で、血を血で洗う覇権争いを繰り返し諸ハン国ほ衰退に向かった。この時、諸ハン国の混乱に乗じてイスラム化したトルコ系の豪族から台頭し、後に「世界の征服者」と言われたティムールが出現した。1370年にティムール王朝を成立させた(〜1507)。中央アジアを制圧し、南はインド西北部から北はロシアの草原地帯へ侵攻、オスマントルコ軍を撃破した。チンギス・ハーンの西征以上の都市破壊と殺戮を繰り返した。明への遠征途上、ティムールは病死した。ティムール王朝は首都をサマルカンドに定め、15世紀前半に文学・天文・暦法・建築・細密画などの文化が繁栄した。1508年、ティムール王朝はウズべック族に滅ぼされた。

〔15世紀〜〕

シルクロードが衰退に向かった。一つには、1498年にバスコダ・ダ・ガマがインド洋航路を発見したこと、二つ目は1453年にオスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼしシルクロードの要所コンスタンチノーブル(イスタンブール)を征服したことによる。また、ティムールの死後、中央アジアは再び内乱の時代に入り隊商活動が困難になった。ヨーロッパは、造船技術や航海術の進歩もあり新しい通商路を海路に求める結果となった。

〔17世紀〜〕

1644年、清の中国支配始まる(首都北京)。1680年、ジュンガル(モンゴル系・オイラート部族)がタリム盆地全体を支配した。清は、ジュンガリアを準部と呼び、イスラム神聖国家を形づくっていたタリム盆地を回部と称した。1755年、清はジュンガリア、東トルキスタン征伐を開始し、1757年にジュンガル王国は滅亡した。清朝はこれらの地方を新疆と名付けた。19世紀中頃に、東トルキスタンで内乱(1864〜1867東トルキスタン・ムスリム国家自立)が起きたが1876年に清が鎮定した。1882年には新疆に省制をしき、中国人を盛んに入植させて安定化に努めた。

〔20世紀〜〕

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、スウェーデンのヘデン探検隊が地理的な、英国のスタイン、日本の大谷の各探検隊が考古学的な西域の踏査を行いシルクロードが再び世界の注目を集めた。

1949年、中華人民共和国が成立、1950年に新疆省人民政府が樹立され、1955年に薪疆ウイグル自治区が成立した。

 

 

 

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