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な話が出来そうな気がする。

二木島はその昔太地と共に捕鯨漁業の根拠地であった。港の入り口にある灯台の横に嘘か誠か「神武天皇上陸の地」の碑が建っている。二木島には「椿の葉を巻いた煙草」とか「もろた船」とか古い話が今も伝わっているので本当かも知れない。もろた船とは諸手船とも云う神代紀における快速船である。万葉に

“島隠りわが漕き来ぬは羨しかも倭の上る真熊野の船”

とあり外海特殊船として長い船を多くつけ大勢で漕いだものらしい。

二木島を出て船人しか見ることが出来ない美しい柱状岩が並ぶ楯ヶ崎周辺を過ぎると、水面より一五〇米の高さに昭和三年(一九二八年)一一月一日に初点された二四万燭光・光達距離三〇浬を誇る熊野灘中央の守火・三木崎灯台が見える。その灯台の下を廻ると最盛期には「一網入れると一蔵建った」と云われた鰤漁の本場、又、九鬼水軍の発祥の地、九木に入る。戦国時代九鬼右馬之允嘉隆を将とする九鬼水軍は信長傘下で天下にその名を轟かせたが、鰤漁を見ていると海賊の勇壮な血はそのまま大敷網を巻きとる漁師に受けつがれているような気がする。

九木口の定置網を越すと遠洋漁業の基地、又、尾鷲節や雨の多さで知られる尾鷲になる。湾の最奥部にあったセギノ山は千木の山とも関の山とも云われ南朝の古墳や海賊船の見張沌所があったそうだが中部電力尾鷲三田火力発電所の埋立や区画整理で削りくずされ今は跡かたもない。市内にはヤーヤー祭で有名な尾鷲神社・婦人の信仰の高い向井浦の辨財天、役の行者の天狗倉山・女王滝と見る所も多い、湾内にある雀島は木もなく波に背を洗われているが第二次大戦中軍艦と間違われ、米軍機に爆撃されたそうだ。地元では軍艦島と呼ぶ人もいる。

 

尾鷲から英虞湾まで

尾鷲湾入口にある須賀利は中世・相賀荘の一部であった。アイヌ語で「スガ」とは砂の堆積する所「利」とはキビとか麦と云った穀物をスキで耕す意味である。昔は陸の孤島と呼ばれ生活は海に頼るしかなかった。

種まき権兵衛古里引本浦の相賀をちらっと見て尾鷲湾を一歩出ると長島大島が見える。

全国に大島と名のつく島は数え切れない程あるので船人はその土地の名前を上につけて呼んでいる。この長島大島には天然記念物に指定されている暖地性植物の大群落があり中でも南国の名花浜木綿が密生している。この浜木綿についてこんな昔話が伝わっている。その昔、紀伊長島の浜辺で港次郎左衛門と云う人がかんからこぼし(河童)と相撲をとって勝った。その時負けた河童が万病の薬浜木綿を長島大島に植えると約束したと云う。風光名美に長島大島や鈴島・三浦海岸周辺は最近色々と観光開発が検討されていると聞くが美しい自然はそのまま残してほしいものである。

鰻の寝床のような長い町紀伊長島・芦浜原子力発電所建設問題で有名になった紀勢町錦と南島町古和を左に見て進むとハゲ山が見えて来る。セメントの原料土を取っている神前の山だ。神前浦(カンサキウラ)と読む。前をサキと読む例は

京都の前山(サキヤマ)

千葉の前広(サキヒロ)

神奈川の前取(サキトリ)

長崎五島の前方(サキカタ)

愛知の前刀(サキト)などがある。前とは崎と同じような意味で神がいる(祀る)先のことである。

神前浦内の南側にある弁天島は奈良朝時代の高僧行基菩薩が支那の高僧に願って三角柏(御綱葉)を植え伊勢神官の御園として祭ったと云う。捨玉集によると天平九年一二月一七

 

 

 

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