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域内の津賀部落から二組の夫婦を召して古座近くへ移住させ漁業を励ませたのが始まりと云う。頼宣公は紀州ミカン類栽培の祖でもある。よい指導者がいる国は栄えるのは今も昔も変らない。

古座を過ぎると万葉のふる里、下里・太地と続く、両町とも古くから港として栄え海は玉の浦と呼ばれていた。

“わが恋ふる妹に逢わさず玉浦に衣かた敷き一人かも寝る”

“荒磯ゆもまして思へや玉の浦の離れ小島の夢にし見ゆる”

太地は日本で最初に捕鯨を始めたことで知られている。建保元年(一二一三年)五月鎌倉で敗れた和田義盛の残党が船で逃れて太地浦に漂着しここに住みついた。武士を捨てた人々はこの沿海に密集する鯨を取ることによって生計を立てた。以後ここより羽刺の和田金右衛門与平治(一六○六年)、苧網<カラムシ>の太地角右衛門頼治(一六七七年)などの捕鯨名人が出て全国一の捕鯨基地として有名になった。

“百艘の船に取り巻く鯨かな” 子規

明治一一年(一八七八)一二月二四日、セミ鯨の子持を捕えんとして村中総出で出漁したが突風に逢い船は転覆し百数十名が死亡した。この大惨事をもって太地捕鯨の歴史は終わったと云ってもよい。現在では遠洋・近海漁業の基地として知られている。

太地の北は紀州松島と云われる那智勝浦である。その昔、迦都宇良とも迦都良とも呼ばれ那智神社の門前町として栄えた。大阪・神戸・名古屋からの船による蟻の熊野詣の上陸地として賑わっていた。海から淡水が出る不思議な井戸「奇井」、海上警戒の狼煙をあげたと云う「狼煙山」、神武天皇上陸の地と伝わる「船隠し」など珍しい所も多い。

勝浦を出て新官に至る沖合で天気のよい日には日本三名瀑の一つ那智の滝が見える、現在でもこの滝に向い航海の安全を祈る船人達が多いと聞いている。

 

新宮から尾鷲まで

和歌山と三重の県境、熊野川河口にある新宮は歴史も古く神武天皇が熊野川沿いに大和国を征伐した時に開けたと伝えられている。昔はこの熊野川上域より熊野杉を筏にして流した「筏下し」の人達の遊び店として屋根に釘も打たないバラック造りの店が河原に軒を並べて「河原三年水さえ出なきゃ蔵が立つ」と云われた程繁盛していたらしい。

“川原には小家おかれぬ烏来り砂に生みたる卵のようにも” 与謝野晶子

平安朝末期より鎌倉初期まで続いた熊野三山の一つ速玉神社への熊野参詣によりこの町は急速に栄えた。

“み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へぞ直に逢はぬかも” 柿本人麻呂

新宮から熊野市までは熊野灘沿岸では珍しくなだらかな曲線を画く海岸線となり、浜は七里御浜、海は熊野浦と呼ばれ約二五キロに及ぶ那智黒小石の砂利浜と美しい防風林が続き船人の目を楽しませてくれる。この松は江戸時代徳川家の家老から新宮城主となった小野重仲が旧領浜松から松苗を取り寄せ移植したのが始まりと云う。

太平洋を咆哮する高さ二五米の「獅子巖」奇所「鬼ヶ城」を持つ熊野市木本を過ぎると、岬が多くなり急な海蝕崖の海岸が続く。この辺りは紀伊の国(木の国)だけあって緑も濃く地名も市木・木本・遊木・二木島・三木里・九木と木の字のつく所が多い。「木」の字を「鬼」に置き替えると南から一鬼(市木)・鬼本(木木)・鬼ヶ城・遊鬼(遊木)・二鬼鳥(二木鳥)・三鬼里(三木里)・八鬼峠・九鬼と並び面白そう

 

 

 

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