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熊野灘海路風土記

愛知県マリーナ協会専務理事 早川英司

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はじめに

辞書をひくと灘とは海の難所のことと書いてある。この内、日本最大の半島紀伊半島の南東の海を熊野灘と呼んでいる。

昔から遠州灘と共に風浪険悪な海域として知られている熊野灘は、東北に常時約一〜四ノットで黒潮が流れており、船舶はその影響を強く受けて航行している。このため航海術が発達してからは東航船は紀州南端から伊豆南端へ直航し、西航船は逆潮を避け伊豆南端から志摩半島の大王崎に向け、そこから南下して潮岬に向かっている。

熊野灘の沿岸は和歌山県・三重県の一部にあたるが、陸は峻険な紀伊山系の山岳で塞ぎ、海岸は復雑な懸崖が多く、荒海をもって外界から隔絶された一幽遂境となっており、古来より特殊な文化層を構成しているような気がする。

その昔、岸沿いに航海し時化るとお日待ち泊り、凪ると風待ち泊りと海の生活を結構楽しんでいた船人達の後を追い、巷.みなとの風土に接してみたら面白かろうと思い、若い頃熊野灘沿岸の港に帰港した時書きとめておいたものを南から並べてみた。

 

潮岬から勝浦まで

"潮の岬に灯台あれど……"と串本節で有名になった潮岬灯台は、本州再南端の灯台として明治六年(一八七三年)に点火された。又、大鳥東端にある樫野崎灯台はそれよりも早く、明治三年(一八七〇年)六月に石造り回転灯台として初めての灯を点し、以来共に熊野灘最大の難所の守りにあたっている。

大島附近は朝鮮半島の景勝地・海金剛に似ていることから日本の海金剛と呼ばれているが、無数の暗礁があり数多くの船舶が遭難している。大きいものでは明治二十三年(一八九〇年)トルコ使節団が大命を果たし軍艦エルトグルル号にて横浜から神戸に向かう時、ここで座礁沈没し死者六五〇名という大惨事を起している。

紀伊続風上記によると大島は「潮崎を踰ゆる風涛の険悪恐るべさを以って廻船ここに泊して風候を待つ者常に十百群をなす、因りて村中旅泊の家多く生産優なり」とあり江戸時代においては好錨地として知られ大島住民は家の回りに防風防潮用の寒竹を植え比較的よい暮らしをしていた。それに較べ対岸の潮岬は土地も少なく海岸附近の住民の多くは潜水漁業の出稼で生計を立てていた。 一八五〇年頃オーストラリアの木曜鳥へ真珠貝の採取に行ったのも出稼漁業の果てでもあるが、紀州住民の海外進出の先覚として知られている。

船を目的地に向けるため舵をとる梶取崎沖を北に廻ると、左手に古くから漁業が盛んな古座が見える。一六二〇年頃、紀州藩祖徳川頼宣が町

 

 

 

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