私が、親しい仲間と一緒にクルーザーの中型艇を持つことが出来たのは、確か昭和三十五年頃と思います。半田在住のヨット愛好家の方からお譲り願ったのは、Y19クラス(東京横山様の設計によるセンターボード艇)アウトボート/エンジン5馬力付でした。係留場所は、昔の半田港の保安署の前の桟橋でしたが、暫くして鬼崎港に係留場所が出来ましたので、そこへ移動致しました。
我々の学生時代には、高嶺の花と思われたインポートエンジン付クルーザー(フインキール、ディープキール艇)が、いとも簡単にローン等で求められる様になったことと、昭和四十年(一九六五)第20回国民体育大会岐阜大会が蒲郡で開催され、事後その県営ヨットハーバーの格安な利用料金が設定された事は、ヨットの普及並びに発展に大いに役立ったと言えよう。しかしその後、ヨットマンの質低下によるであろう基本的マナーの悪化に、深く関係しております。
我々と言えば、小型艇(A級ディンギー、スナイプ級)が精一杯、自然に吹き来る風を求めて、厳しい練習の積み重ねでした。何せ相手は自然現象です。海洋気象学には、特別に時間をかけてまいりました。
当時は、まだ小型船舶操縦士なる資格制度も無く、動力船も帆船も機帆船も自己責任のもとに、何の支障も事故発生も無く、職業に、レジャーにと、毎日健康的な海を楽しんでおりました。
しかしこの頃から社会的に定着してまいりました分割支払い制度(ローン制度)は、前にも述べましたが、徐々にヨットマンのマナーの悪化並びにヨットマン自身の質低下に係わって参りました。
昭和四十年代に次第に導入されつつあった小型船舶操縦士制度は、初め自己責任に於いて何の支障もなく海を楽しんでいる我々(私自身も含め)にとっては、煩わしく面倒な法律(資格制度)と思い、導入時に於いて強力な反対運動をした記憶がございます。今となって見れば、様々なプレジャーボートの出現は、海難、水難防止上から、この制度は誠に時期を得た相応しい免許制度だと思うようになってまいりました。
しかしながら、その後小型船舶操縦士免許も必要に応じ1級⇒4級に細分化され、充分その役目を発揮しているかの様に思われます。