美幾女に続く者として
山科喬籠
明治二年八月十四日、これは日本で最初の篤志解剖が行われた日であります。願い出たのは、小石川養生所に入所していた女性で美幾女(三十四才)。これまでと違って解剖する側が望んだのではなく、される側が自らの意思で申し出た。このことは解剖学の新しい幕開けとも云えるのではないでしょうか。
世は明治から大正、昭和、平成と年号が変わり、医学も科学もその進歩においては、目を見張るものがありますが献体については、まだまだ美幾女の生きた明治の世と大同小異
篤志者の集まりである会の存在も知らなければ、献体という言葉さへ初めて耳にしたと言う人、また聞いてはいても、身内のいる人は、そういった会には入会しないものと考えている人。
これは我国の医学が蘭学ではなく漢方が主流であった事、美幾女以前の解剖が刑死体を使っていたために野蛮、残虐な行為といったイメージが強いせいではないでしょうか。
荻野吟子女史の好寿院時代の例を引くまでもなく、医の道を志す方々にとって、自分の手で自分の目で人体の構造を知る事は、何にも勝る勉強ではないでしょうか。
今は江戸時代のように人体の仕組みを知らないお医者様はいらっしゃらないでしょうが、解剖実習に十重二十重の人垣ができるというのでも困ります。
献体は世間をはばかるような事でも、親不孝な事でもないと広く世の人々に知ってもらいたいと思います。
美幾女は病んだ自分の体を汚れ蝕まれた体と表現しましたが、私自身も臓器も骨の数も不足していて、完全な体とはいえない状態ですが、生きた教科書として、少しでも医学に役立ってから、旅立ちたいと思っています。また後に続くものとして、念速寺に眠る美幾女の墓に、香華を手向けたいと思っています。
我死すと聞きて哀れに思うれば
時に供えよ酒と花とを