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入会にあたって

高尾 善三

四年前に脳梗塞を患い、現在娘のところで住まいしております。

私が献体を知りましたのは体が今のようになる前、高知におりましたときでした。たまたま何かのことで高知医大で診てもらった時、知り合った人からでした。

「おまさん、まだ献体しちょらんかよ」お医者さんが一人誕生するためには何人もの体がいるちゅうぜよ。というところからでした。このようなことから最近、献体される方が多いなか、私の入会を受け付けて下さったことをうれしく思っています。

さて、人生の最終コーナーにさしかかり、越し方を思うと自分は開拓を職業?にしてきたなと思います。

その第一は、中国東北地方「旧満州」の小公安例嶺のはずれのリュウチンというところで百姓をしておりました。ここでは冬になると零下四五度とちょっと想像を絶する寒さで毛皮の帽子を脱ぐと十分もすると鼻のあたまや耳は凍傷になるという気温です。一年のうちで霜のないのは五月の末からで、早いときには九月の初めには氷がはりはじめます。こんなところで、大豆、小麦、燕麦、キビ等をつくっていました。余りの寒さのため主食であるキビが取れないときもありました。

戦争の雲行きがあやしくなり終りに近づくころ大きな航空隊が設営され、現地自活の食料供給のため野菜を作らなければならなくなり色々な種が配られました。現地で作れそうにないものばかり、発芽してもすぐに凍ってしまい全滅でしたが玉葱だけが厳寒に耐え土のなかで生きていたのです。この時は本当に嬉しかったものです。しかし、その翌年には敗戦になりました。

その第二は、敗戦から一年ほどかかって内地へ引き揚げ、高知の山奥の開拓団で百姓を四十年ほどやっておりました。

第三は、こちらへ来てから、土と緑がきれないもので荒地を耕しています。茄子を作るのには、秋ごろ校を切って収穫するものと思っていましたが、川の水をポンプで吸い上げるようになって水の多いところでは枝切りをしなくてもいいこと。キビを作るには害虫が問題ですが三月のはじめに種を摂氏六〇度位の湯につけて発芽させると六月の末に収穫ができ害虫の心配をしなくてもいいことなど、日々勉強しながら楽しんでいます。

 

 

 

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