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献体の重要さを再確認して

伊芸 恵美子

「まさかこんな事が自分の身近かに起ころうとは、夢にも思わなかった」という言葉を私達は時々耳にしたり、自分でも使ったりします。それは、全く予期しなかった出来事が起こった時であり、戸惑いを覚える時です。その事が良い事であるなら喜びも大きいのですが、交通事故や、重い病気であったりすると失望落胆してしまいます。

人生には順境の時だけでなく、逆境の時もあるという事を知っていても、いざその事が直面すると心穏やかではありません。私は今年そのような事を体験いたしました。

さる七月父が咽頭ガンの宣告を受け、入院、手術をする事になり、私にとって全く思いがけない事でした。医師の説明では、父のガンは相当進行しており、そのまゝでは呼吸困難に陥り苦しんで窒息死するとの事でした。投薬治療も手遅れで手術以外に方法がないとの事でした。しかし、手術をする場合、父が八五才という高齢であり、高血圧である事が問題になりました。さらに、手術をすると声帯も切り取るので手術後は声が出なくなり、話す事が不可能になるとの事、また、喉に穴を開けてそこから呼吸をするようになるとの説明を受けた時、これは大変な事になったと戸惑いました。しかし、そのまゝ放っておく訳にもいかず、本人も家族も医師にすべてをお任せして手術をする事に決め、早速入院検査、そして手術となったのです。

手術の日、待合室で祈り心で手術の成功を待っていた時間がどんなに長く感じられた事でしょう。父は朝九時半に手術室に入って手術が終わって出て来たのは夕方七時頃でした。手術時間があまり長いので手術の途中で何か異変が起こったのではないかと落ち着かない状態でした。医師と神に父の命を委ねたとは言え、同じ待合室で待っていた他の方々が「手術が終わった」と名前を呼ばれて出て行く姿を見るにつけ、自分達だけが最後まで取り残されましたので焦りを覚えました。

病院で"待つ"という事の辛さをつくづく感じたものです。手術が無事終わって名前が呼ばれた時は本当にほっとしました。

手術後、医師は父の切り取ったガンの患部を見せて下され、これがガンです。ここが声帯で殆どガンで隠されています。この小さな穴から呼吸していたのですよ。」と説明して下さいました。その医師の説明を聞いて私は改めて医師に対して尊敬と感謝の思いでいっぱいでした。手術を無事に終え使命を果たした医師の姿に深い感動を覚えました。長時間立ち通しで、しかも全神経を集中して困難であろう手術に立ち向かい、人間の命を助ける医師という職業の責任の重大さ、その使命の尊さに改めて頭の下がる思いでした。

多くの医師達がそれぞれの専門分野で手術を担当しておられると思います。医師達が専門分野で医療技術を身につけるために今までどれだけの解剖が行なわれたでしょうか。さらに解剖が行なわれるためにどんなに多くの献体が使用されたでしょうか。献体と解剖は切り離せないものであり、医学の進歩に大変重要な役割を担っている事を今回の父の手術を通して深く考えさせられました。多くの献体者と医療関係社のお陰で父が元気になれた事を感謝しております。この恩恵を受けた者として、自分の献体が今後のために少しでも役立つ事は幸せなことです。

今後、ひとりでも多くの献体者が増え、医学教育がさらに進歩し、すばらしい医師たちが育ち活躍して欲しいと願っております。

 

 

 

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