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旅路はるか

冨名腰 義雄

十一月六日当会理事の宮城実様からさわやかな秋風にのって一通のハガキが届きました。次号の「でいご会」誌の原稿依頼の便りでした。題名は何んでも、かまわないから唯一のでいご会員の交歓の広場として、是非、一筆投稿してくれないかとのことでした。

筆不精の私で、お断りしようと思いましたが、過去において自分が苦しい生活をしていた頃の体験の一端を述べて見たいと思い筆をとりました。

私は幼少のころ両親に死に別れて其の後、親戚の方々がイーマール(交代制)で、小学二年生中途まで世話になりました。親戚の方々も貧乏人ばかりで、それ以上の援助はできなかったのです。

当時は、今日のように援護施設もなく、両親の葬式費負債を返済するため、八歳の時に糸満売り(漁夫見習い)にされたり、次は中城村の農家へ年末奉公にやられたり、二十歳の成人で徴兵検査に合格し、鹿児島四十五連隊へ入隊することになりました。

那覇港から出発の際、見知らぬ「おばさん」から五十銭の餞別を頂いたことは、今でも私の心の中に生きつづけています。多分その「おばさん」は、私の母のお友達ではなかったのかと想像しています。

軍隊時代は、大和言葉も文字も読書も知らず、軍人勅諭の五カ条さえも読めぬ文盲の私に読め読めと上官からいじめられ、同年兵からも馬鹿にされ、その時は、私を産んでくれた両親を恨むこともありました。しかし、四年間の軍隊生活も満期となり、十五年戦争終えんの地沖縄で、九死に一生を得て生き残り、戦後は、結核に冒かされ十余年も療養生活を強いられた日々でした。その間、妻は幼い五人の子供たちをかかえての苦しい日々を、次の詩句を口すさびながら生きてきたようです。

  山のあなたの空遠く

  「幸」住むとひとのいう。

  ああ、われひとと尋(と)めゆきて

  涙さしぐみ、かえりきぬ。

  山のあなたになお遠く

  「幸」住むと人のいう。

  (カール・ブッセ詩)

この詩は、人間の幸福への憧れを歌ったものですが、今から五十数年前の苦しかった生活が思い出されます。

今では五人の子供たちも独立し、孫も男子六人、女子五人、曽孫も三人それぞれ元気でいます。子は親に親は子に甘えず、金婚式も終え、いまは、じいさん、ばあさんの二人暮し、旅路はるか――、ゆっくりした時間が流れています。そして私が、幼いころ亡くなった両親がお迎えにきた時の心の準備もできました。

それは六年前、「日本尊厳死協会」に登録入会し、人生最後の心の準備が出来たことでした。その内容は、次の三点に要約できます。?私の病気が、現在の医学では不治の状態であり、死期が診断された場合は、一切の延命措置はお断りすること――。?但し、この場合、苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。

?数ケ月以上にわたって、いわゆる植物状態に、陥ちいった時は、一切の延命治療はとりやめること――。以上を認め約束した登録証の交付を受け、日本尊厳死協会の終身会員となり、でいご会にも入会、登録番号五二二番目の会員として認めてもらいました。

そして、この世とお別れの際はなんの心配もありません。去年九十七歳で亡くなった、梅原竜三郎画伯は「葬式無用、弔問供物固辞すること、生者は死者のため煩わさざるべからず」と、遺言しています。私もそのように、最後の人生を終えたいと思います。

 

 

 

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