展示
芸術とヘルスケア会議
■すずかけ作業所
彼らは専門的美術教育も美術情報も知識も、世間でいうところの絵描きの有するものは、何一つ持っていない。彼らは手ぶらでそこにいて、彼らは呼吸するように絵を描いている。
知的障害をもつ人達の授産施設「すずかけ作業所」で、おしかけボランテイアとして絵画クラブを始めて5年。私が彼らから教えられ気づかされたものは数限りない。
そして同じくアートボランティアとして共にいる人達も思いは同じに違いない。知的障害者と健常者。同じ街に住みながらまるで人生のレールが違うかのように出会うことのないこの社会で、アー卜という原っぱで自然に出会った私たちは幸運だった。その幸運について今つくづく思う。
考えてみると、私たちの社会がもつ「深い悩み」は常にその専門性に埋没していることが多い。芸術の問題がそうだ。特に近代になっての芸術はその流れの時系列を「知識」として知らねば次代の芸術は語り得ないという、専門家だけが理解可能で専門家だけが悩み深い閉塞性の上に成り立ってしまっているところがある。また福祉の状況も似たところがある。近年、福祉行政も「ノ―マライゼーション」(共に生きる社会づくり)というスローガンを打ち出し、現場の専門家の間でも真剣な議論が頻繁だ。しかし世間一般にはこの言葉を知る人さえまだ少ない。
この二つの事で共通しているのは、「共感」の土壌が無い上にいくら専門性を積み上げられても一層解らなさを増すだけということだ。私達はもっと理屈を越えたリアリテイーを求めているのではないか。自分の心の中の琴線で感じるところのものでしか、それは生まれない。
ここに展示する彼らの表現は、説明を越えて有りありと何かを伝えて来る。その表現は彼ら自身が自らの方法でつかみ取った知恵に依っていて、他の誰の真似でもない。彼ら自身の心の奥にうごめくものを、やむにやまれず吐露したもので、何の気負いもない。時にそれは無意識の様でもあり遊びの様でもある。
作品の前で私達は、強く深く、心の芯のあたりを揺さぶられ、知らぬ間にゆっくりと癒されている。生きている熱い共感に頷いている。芸術とは本来そういう交信なのではないだろうか。私達はそういうあたりまえで平坦なことを知っていたはずなのに、いつしか忘れて難しくあくせく走っている。
今日は一度、手ぶらでこの原っぱに立ってみてほしい。
私達に必要な次の時代の入り口が、その平担な視野から見えてくるかもしれないと思うのだ。
(はたよしこ・絵本作家)
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