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●潮の流れと歴史的事件との関わり

「源氏物語」の「須磨の巻」「明石の巻」に、須磨に流されてきた光源氏が明石の入道に助けられ明石に連れて行かれるくだりがあります。また、「一ノ谷の合戦」では、須磨にある鉢伏山に陣を張った平家軍が源氏軍に破れる義経の「ひよどり越えの坂落とし」は非常に象徴的ですが、これに明石海峡の潮の流れが関わっています。「垂水・塩屋に干潮なし」という言葉があります。上げ潮の時も下げ潮の時も西向きの潮になるため、垂水・塩屋に下げ潮はないと昔から言い伝えられています。そういう場所を知っている平家の軍がここに陣を張ったのです。西の方から源氏軍の船がやって来ても、手漕ぎで上がって来るには時間がかかるから心配ない、東だけを見ていたらいい、いざ事があった時に船を出せば、潮に乗って四国、屋島に逃げて行けるという、脱出路を確保した陣立てだったのです。

これと同じようなことが南北朝時代の『太平記』にも描かれています。楠木正成が「湊川の合戦」で足利尊氏に負けた原因は、「垂水・塩屋に干潮なし」という先入観にとらわれ、旧山陽道の山からの出口に待ち受けていたが、蒙古来襲の時代がもたらした技術で造った構造船に乗った足利尊氏の軍団が、沖合いの強い潮にこぎ出して和田岬まで東上し、新田軍の後方に回ったためあの結末になったのです。世間ではあまり知られていませんが、こういったことも潮の流れを見ていると分かってきます。

 

●明石の潮の流れの不思議

「瀬戸のイヤニチ引き三分」という言葉があります。「こんなん嫌や」という意味での「イヤ」、「ニチ」というのは「ミツ」、上げ潮という意味。瀬戸内海全体の海峡部の狭くなった所で波立ちの厳しい所を「瀬戸」と言い、ここでは明石海峡のことを指します。「引き三分」は潮時を言い、「瀬戸」で起こるイヤな上げ潮というのは、西から東への下げ潮の6時間のうち、三分、つまり2時間ほど経った時に突然現れるのです。この時、潮と潮が激しくぶつかるので、遭難する可能性が高くなり、「瀬戸のイヤニチ引き三分」と恐れられました。

なぜこういう現象が起こるのか明石海峡大橋の影響調査研究の結果、10年前にようやく分かりました。すなわち、深みの脇にぶつかった潮が跳ね返されて、時計の反対周りの渦を作ります。それが上げ潮の間どんどん大きくなり、下げ潮になった時、水は西から東へ行こうとするのですが、渦が残ったまま戻っていきますから、渦の中の西行きの成分がこの浅瀬にたどり着くのは2時間ほど経ってからになります。これが「イヤニチ」として現れるのです。

 

●明石海峡の海の色

冬は海が比較的きれいで澄み切っている時期で、7月から9月までが大阪港全体に赤潮が出たり、海の汚れが目立つ時期です。夏にフェリーに乗ると、海の色が最低5色変わっていくのが見えます。一番神戸に近い側は「垂水・塩屋に干潮なし」の西向きの潮の流れに合わせるように湾奥部のコーヒー色の水が流れて来ます。それを通り抜けるといったん明石海峡に取り込まれてその水と混ざったものが戻って来て、2色目の帯ができます。それがまた行きつ戻りつしている水の層があり、一番淡路島寄りには大平洋からの黒潮系のきれいな水が入ってきます。それがまた明石海峡で混ざって戻って来て、このように色の違う水が、4段階、5色ぐらいに分かれます。冬場は、全体が混ざりコントラスト良くは見えませんが、淡路島寄りで乗り始めた時の海の色と須磨に近づいた時の海の色を見比べたら、水質の善し悪しが分かります。

 

●水質と自然の浄化力

須磨海水浴場では、海水浴シーズンの水質が、1日に2時間だけ沖合いにきれいな水が差し込む時に)測ると特Aランク、非常に良い水質として報告され、そうでない時はBランク、あまり長く泳いでいてはいけない、と報告されます。そこで、湾奥部の水の浄化を真剣に考えていく必要があます。大阪湾にはABC、3ランクの水質基準と、それを守る形で様々な排出基準がありますが、実は考え方が逆だと思っています。あの基準は一番奥ほどゆるく、淡路島に近いほど厳しい。淡路島・

 

 

 

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