日本財団 図書館


―ダーの地位にあるのである。ロシアには、サマーラ州、ウリヤノフスク州のように、いまだに市長・地区首長の4割近くが旧党第一書記、旧ソビエト執行委員会議長であるような州もあるが、スヴェルドロフスク州や沿海地方のように共産党体制が根こそぎ転覆されたリージョンでは、グニェズヂーロフのような例は稀である。ただし、市民にとつては共産党体制時代の指導者が生き残った場合の方が概して幸せであることは、ウラジオストク市の惨状とナホトカ市を比べれば納得されよう。グニェズヂーロフは、ロシア連邦の優秀な市長50傑の一人に数えられているそうである。

首長が長期安定政権を築いている場合、飽きられるという側面と、比肩しうるライバルがいなくなるという側面とがあるが、ナホトカ市の場合は現時点では後者である。1996年12月の市長選挙では、有効票の68.5%がグニェズヂーロフに投じられた。最後の市党第一書記であったユーリー・メリノフは、まだ市内に住んでいることは確かだが、市庁の指導者でさえ彼がいま何をしているのか知らない。1990年春の民主化ソビエト第1会期でソビエト議長に選ばれたイーゴリ・ウスチーノフ(元ナホトカ漁港長)は、1991年にナホトカ自由経済特区が設立された際にその初代管理委員会議長となり、1993年には第1期下院議員としてモスクワに転出した。1997年12月現在、ナホトカ自由経済特区のモスクワ駐在代表である。ソビエト議長としてウスチーノフの後を継いだミハイル・ベセーヂンは、1993年のソビエトの廃止後は、故郷のヴォログダ州に帰ってそこで地方都市の市長となった。さらに、かつての市長代理のうち相対的にキャリアがあった2名は、グニェズヂーロフに対抗して1996年市長選挙に出馬した。落選後は、当然、この人々は代理職を辞したから、1997年12月現在、グニェズヂーロフの5名の代理たちは皆、およそ1950年前後の生まれ、1993年以降に市庁の指導的な地位についた新人ばかりである(103)。

こうして高い権威を誇る市長への挑戦は、思わぬ方向から降りかかった。それは、市長と同時に選ばれた市議会である。これは、市ソビエトの廃止後、3年ぶりに成立した代議機関である。ナホトカ市でも1994年3月に市議会選挙が予定されていたが、ナズドラチェンコとチェレプコーフの対立の巻き添えを食って延期された。1995年1月に実施された選挙では、低投票率のため、予定された15名のうち3名しか議員が選ばれなかった。やむを得ず、この3名を含めて、市長の諮問機関としての「社会会議」が設立されたが、これはもちろん予算の審議権などは持たない機関であった。ウラジオストク市と同様、当時のロシアの基準に照らしても非民主的な行政府独裁が成立したのである。

1996年12月22日、市長選と同日投票であったことから今度は市議選も成立し、定数11名の議会が生まれた。その社会的構成は、会社社長3名、市病院長、教員1名、

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION