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には、ほかの多くのリージョンと同様、体制危機の焦点が党外から党内へと移動しただけだった。

ロシア人民代議員選挙と同時に行われた地方選挙の結果、新しい沿海地方ソビエトが成立した。これに先だってゴルバチョフは、全ソ連の共和国、州・クライ、地区・市の党第一書記に、当該ソビエト議長に立候補し、(当選できれば)党第一書記職とソビエト議長職を兼任することを命じていた。したがって、このゴルバチョフの兼任方針が実現されたか否かで、当該地域の体制危機の深刻度を測ることができる。沿海地方の党指導者は、ゴルバチョフの兼任方針に独特の対応をした。クライ、地区、市の党第一書記たちはソビエト議長に立候補したが、多くの場合、当選した場合は党務を辞してソビエト議長職に専念することを公約して立候補し、実際にその公約を守ったのである(40)。まさにこの手続きを経て、ヴォルィンツェフがクライ・ソビエト議長となり、ウラジオストク市党第一書記であったウラヂーミル・セメンキンが同市ソビエト議長になったのである(41)。ヴォルィンツェフは1992年春までこの職にあるが、セメンキンはやがてウラジオストク市レーニンスキー市区党委員会書記だったセルゲイ・ソロヴィヨフに替わられる。共産党指導者たちがあっさりと党の地位を放棄したのは、党と国家の分離を求める民主派に攻められたからではなく、彼ら自身が党の将来を見切ったからであると言われている。

民主化沿海地方ソビエト第1会期が下したより重要な選択は、ソビエト執行委員会議長(後の知事)にウラヂーミル・クズネツォフを選んだことである。1954年生まれ(当時36歳!)、モスクワ国際関係大学卒、ソ連科学アカデミー世界経済国際関係研究所で修士号を取得、当時ソ連科学アカデミー極東支部に付属する「海洋開発に関する経済及び国際関係問題研究所」副所長であり、容姿も端麗であったクズネツォフは、文字通り辺境のプリンスであった。クズネツォフがクライで著名となったのは、役職上、アジア太平洋圏の経済協力に関する国際シンポジウムなどを活発に開催していたからである。1990年当時は、崩壊の速度を増すソ連経済へのオールターナティブとして、アジア太平洋圏経済への楽天的な期待が高まっていた時期であった。

ヴォルィンツェフがクライ党第一書記を辞した後、その後を継いだのはウラジオストク市のソビエト執行委員会議長であったA.S.ゴロヴィゼンであった。前任のガガロフとヴォルィンツェフとは、互いにタイプこそ違え強力な指導者であることについては衆目の一致するところであったが、ゴロヴィゼンは明らかに、クライ党第一書記のなり手がないために無理に抜擢された指導者にすぎなかった。1991年の8月クーデターに際してのクライのトップ3の対応は、ゴロヴィゼ

 

 

 

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