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は、ドミトリー・ガガロフであった。彼は、工学系の高等教育を受け、地区党委員会の指導員から始まる典型的な党指導者の経歴を持った人物であった(38)。ペレストロイカが深化するなかで1989年1月にガガロフに替わった第一書記アレクセイ・ヴォルィンツェフの経歴は、既に異質である。まず彼は、経済学修士であり、工学・農学教育の持ち主ではなかった。1987年にクライ党第二書記としてモスクワから戻つてくる以前の彼のクライにおける最高のキャリアはクライ党委員会工業部長(それ以前はアルチョム市党第一書記)にすぎなかった。彼がガガロフの後継者候補(第二書記)としてクライに戻ってきたことは大抜擢にほかならず、ガガロフはこれに大いに不満だった。

こうした目新しい人事政策にもかかわらず、ソ連共産党クライ組織はその年の3月に行われたソ連人民代議員選挙で手痛い敗北を蒙った。第一書記に選ばれたばかりのヴォルィンツェフと、太平洋艦隊司令官フヴァートフが落選したのである。また、ウラジオストクの民族選挙区は、そのほんらいの趣旨に反して極東軍管区司令官の指定席となっていたが、この選挙では極東先住民の代表である著名なエヴドーキヤ・ガーエル(1934年生のナナイ人女性)が選ばれた。この1989年春のソ連人民代議員選挙とは対照的に、その1年後のロシア人民代議員選挙においては、クライ党委員会第二書記の落選を除けば、ノメンクラトゥーラ候補の深刻な敗北はなかった(39)。一見、ソ連共産党がもちなおしたかのようであるが、実際

 

 

 

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