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ンがクーデターに好意的、ヴォルィンツェフ・ソビエト議長は日和見(結果待ち)、クズネツォフ・ソビエト執行委員会議長はクーデターに抵抗の意志を示した(42)。にもかかわらず、ヴォルィンジェフは、クーデター協力の嫌疑をかけられ、やがて解任されてしまう(43)。後を継いでクライ・ソビエト議長となったのは、ヴォルィンシェフ議長下で副議長を務めてきたドミトリー・グリゴローヴィチであった。彼は、1993年十月事件までこの地位にあった(図表1参照)。

ウラジオストク市の執行権力について補足しよう。1990年春、ウラジオストク市ソビエトは、執行委員会議長候補を公募したが、最終的には、当時ウラジオストク市党委員会第二書記であったボリス・ファヂェーエフ(1944年生)に執行権力を委ねるという標準的な人選に落ち着いた。しかし、彼は短期間のうちに市ソビエトと対立して辞任した。ファヂェーエフは、1993年に、「パクト」副社長として、そしてウラジオストク市長候補として再浮上するだろう。ファヂェーエフの後を継いで市ソビエト執行委員会議長となったのは、船員出身のエヴゲーニー・ブリノーフ(1948年生)であった。翌91年に入ると、市ソビエト議長ソロヴィヨフとブリノーフの間で緊張が生まれた。ブリノーフは市民の人気も高かったが、8月クーデターに際してクーデター派を支持するというへまをやった(44)。それを理由として解任されることはなかったが、1991年末、クズネツォフ沿海地方知事は、ソロヴィヨフとの対立を理由に、ブリノーフではなく彼の下で市ソビエト執行委員会議長第一代理(第一副市長)であったウラヂーミル・エヴレーモフを市行政府長官(市長)に任命した。ソビエトの民主化の結果として異なる分野から抜擢されたブリノーフとは異なって、エヴレーモフは第一代理職以前にもチタ市党委員会第一書記として働いた経験を有していた(45)。エヴレーモフは1993年3月までこの職にあった。

 

(2) 二つの政権交代:1993年

 

沿海地方前知事クズネツォフについては、相対立する二つの評価がある。ひとつは、彼は「学者知事」、「素晴らしい雄弁家ではあるが、行政官としては駄目だった」、したがって1990-91年の民主化時代ならまだしも、ショック療法後の厳しい経済状況のなかでクライの舵取りをする能力はなかった、とするものである(46)。もうひとつの評価は、彼の指導スタイルは古い指導スタイルに馴れた人々には受け容れられなかっただけだとするものである。後者の評価を下す人々は言う。中級指導者は、(まさにナズドラチェンコが体現するところの)親分肌の古い指導スタイルを好むものである。そもそも1992-93年の経済状況下で誰がクズネツォフ以上の統治ができただろうか。クズネツォフは、住民が困苦のどん底にあ

 

 

 

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