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で85年では989件、92年では1,857件となっているのにたいして、沿海地方では1,348件から3,134件へと増え」た(37)。第二に、フロンティア社会に固有の自力救済・実力闘争的な秩序観の優勢があげられる。

フロンティア社会の秩序観を典型的に示すのは、沿海地方の裁判所、検察、警察をナズドラチェンコ派が非公式な経路を通じて支配しているという事実である。この点では、こんにちでもナズドラチェンコ派はチェレプコーフ派よりも決定的に有利である。こうした事情は、長期のボス支配下では、アメリカ、イタリアなどのあれこれの地域でも起こりうるだろうが、ナズドラチェンコの傑出した点は、知事に就任してからごく短期間で法秩序維持機構を押さえてしまったところにある。この条件下では、政治の延長として犯罪を用いる誘因が大きくなるのは当然である。

 

3 沿海地方政治史概説:1990-1997

 

(1) 沿海地方におけるビッグ・バン

 

ポスト共産主義ロシアのリージョン政治は、当該リージョンの旧共産党エリートがどのように離合集散したかによって決まった。共産党体制を崩壊させ、民主化を進めた主な主体は、?「民主ロシア」に結集する人文・技術インテリゲンツィヤと、?ソ連共産党内「民主政綱」派に代表されるノメンクラトゥーラからの鞍替え組であった。重要なことは、エリツィンが8月クーデター後のリージョン権力を安心して委ねることができたのは、倫理的には純粋であるが統治能力を持たない?ではなく、倫理的には疑わしいが統治能力を持つ?であった。そのため、1989年から91年にかけてのリージョン政治の動揺の度合いと1992年以降に成立したリージョンの政治体制の強弱との間には図表4に示すような相関関係がある。逆説的なことではあるが、「州が進歩的であればあるほどエリツィンの基盤が強くなる」という因果関係は成り立たず、「弱・強・弱・強」が交互に現れるのである。この仮説は、1996年知事選挙の結果とも大方において符合している。沿海地方は第二のグループ、一定の進歩性にもかかわらずエリツィンの基盤が弱いグループに属している。沿海地方においてはインテリ層が厚いため「民主ロシア」派がある程度は強かったが、クライ政権を支えられるほどではなかった。他方、既述のウラジオストクの地の利ゆえに、党委員会系列・執行権力系列のノメンクラトゥーラは早々と共産党体制に見切りをつけてビジネスに転じた。よって、エリツィンは沿海地方に強力な権力基盤を見出さず、1990年春の民主化選挙で政界入りした「学者政治家」クズネツォフに依拠し続けざるを得なかったのである。

1984年から89年1月にかけてソ連共産党沿海地方党委員会第一書記を務めたの

 

 

 

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