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苦境に喘ぐ自州産業の面倒をみざるをえなくなった。この中で最も不満を募らせたのは、スヴェルドロフスク、チェリャビンスク、サマーラなどの巨大な工業力を有するロシア人州であった。これらの豊かな州は、補助金のおかげで成り立っている貧しい民族共和国を「養い」ながら、その民族共和国が享受しているような財政上の自主権をも与えられていなかった。これらロシア系の工業州は、なぜ自分の食い扶持を削って他人を養わなければならないのかと考えた結果、ロシア連邦が民族原理で編成された連邦国家であるところに問題があると結論したのである。こうして、ガイダール改革の中で自州の産業を護ろうとする試みは、ロシア連邦を、レーニン主義的な民族自決原理に基づく非対称的な連邦国家から、純粋な領域原理に基づいた連邦国家へと、すなわちロシア人州と民族共和国に平等の権利を保障する対称的な連邦国家へと再編しようとする志向へと転化したものである。スヴェルドロフスク州知事E・ロッセリが指導したウラル共和国運動は、よく誤解されているように分離主義的なものではなく、この連邦制の原理転換を求めるものであり、その意味では1993年憲法を先取りしたものであった。この憲法は、(民族共和国のみが憲法、大統領を持てるなどの)様々な不徹底はあるものの、それ以前に存在していた連邦制に比べれば、ともに「連邦を構成する主体」として認定された州と民族共和国により平等な地位を保障するものである。

緩やかなエリート連合形成/連邦制形成の第3段階は、1994年以降のエリツィンの路線転換である。ここでエリツィン政権の政治路線をおおまかに振り返れば、八月クーデターの失敗を受けたユーフォリア(至福)の時代=革命的ロマン主義の時代が1992年前半までは続いた。ロシア国民の記憶には、この時代はエゴール・ガイダールの名と不可分のものとして残っている。1992年後半から1993年春にかけては、ショック療法の無惨な結果を受けて、政権はより慎重な方向に軌道修正する。1993年春の国民投票においてエリツィンの社会経済政策が支持されたため再び革命的ロマン主義の時代が到来し、エリツィンは9〜10月の大統領クーデターへと突進するのである。1992年の苦境を経験してなお、投票所に来た有権者のうち52%がエリツィンの社会経済政策を支持したのだから、最高会議を超憲法的措置により解散した後も、この有権者たちは政権与党に投票するとエリツィンたちが考えたとしても無理はない。12月の国会選挙の結果はこの見込みが甘かったことを示し、ここに、革命的ロマン主義の時代は最終的に終わるのである。

革命的ロマン主義の終焉は、エリツィン側のたんなる譲歩ではない。革命的ロマン主義期の大統領派は、実は地方エリートに対するコンプレックスに苛まれる人々であった。つまり、「地方エリートは本質的に親共産主義的・反改革的であるにちがいない。だから、州知事・行政長官任命制を活用して急進改革主義を上から持ち込み、地方エリートを分裂

 

 

 

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