日本財団 図書館


を保障された「全国政党」の形成は、憲法上の連邦制・地方自治制の導入とさして矛盾なく並存してきた。それは、本節冒頭に述べたように、行政府党のファンクションそのものに、連邦制、地方自治制の採択を好都合ならしめるような遠心的な要因が内在しているからである。まず、行政府党が州エリートの緩やかな連合体として形成された経過を考察しよう。

緩やかなエリート連合形成/連邦制形成の第1段階は、「ビッグ・バン」としばしばあだ名される1990年前半の政治的動乱である。春の共和国選挙・地方選挙、そしてエリツィンの勝利に終わった最高会議議長選挙に絶頂を見たこの政治的動乱は、共産党体制に未来がないことを多くの地方エリートに自覚せしめた。決定的な要因は、共産党の地位が動揺したことそのものではなく(それは、共産党が憲法上の政治的独占を放棄した時点で予測されていた)、この危急の状況においてソ連邦指導部が事実上消滅してしまったことである(15)。その結果、各州党委員会が当該州の事実上の「中央委員会」となり、「いかにして生き残るか」という問題が地方エリートの最大の関心事となった。この「生存をめざす闘争」の中で、共産党体制を特徴づけていた(少なくとも外見上の)エリートの同質性は失われ、ある者は「民主派」に転じ、ある者は熱狂的な民族主義者となり、ある者はポピュリスト的な左翼主義者となった。

概念的な政治イメージによれば、政治家はまず(多くの場合、世界観的な)政治目標を抱き、次にその目標達成に好適な政治活動の方法を選ぶと考えられがちである。しかし、ソ連邦共産党体制の解体過程におけるエリートの行動においては、指導者としていかに生き残るか、当該州の選挙民にいかに気に入られるかということが(当然にも)自己目的化され、その目的達成のために好適なイデオロギーを器用に採用するというプラグマティズムが顕著となった。このプラグマティズムに長けていた者が、八月クーデター未遂事件の後、州行政府を形成したのである。こうした点では、熱狂的資本主義者の立場をとったチェリャビンスク州行政府、熱狂的民族主義の立場をとったタタルスタン共和国行政府、ポピュリスト的左翼主義の立場をとったウリヤノフスク州行政府の問に大きな違いはない。西側の観察者は、1990年から91年にかけてのソ連政治を、そこにおいて社会主義と資本主義の間の闘争が展開されているかのように解釈した。しかし、実際には、この時期のソ連政治は、「争点が党派を作るのではなく、党派が争点を作るのである」というG・サルトーリの理論を地でゆくような様相を呈したのである。ともあれ、「生存のためのプラグマティズム」の当然の結果として、各州行政府は、ソ連共産党時代には考えられもしなかった政治的な多様性を呈するようになった。

緩やかなエリート連合形成/連邦制形成の第2段階は、ガイダール改革から1993年憲法採択にかけてである。ガイダール改革が極端なマネタリスト的方法を採用したため、言い換えればロシア連邦レベルでの産業政策を放棄したものであったため、各州行政府が

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION