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させることによってしか、改革派は地方に支持基盤を見出すことはできない」という先入観に取り憑かれていたのである。ところが、1992年以後の情勢は、地方エリート・旧ノーメンクラトゥーラが資本主義への適応能力と意欲を十分に有していることを示した。これを認識する中で、大統領派は、地方エリートの分割統治政策をとることはエリートを無益に怒らせるだけである、むしろ地方エリート総体と取り引きする方が得策であると考え始めたのである。

こうして、大統領府は、第1の軌道修正期、1992年末には州知事の更迭に着手した。八月クーデター未遂事件後のユーフォリアを受けて、一部の州では革命的ロマン主義者(あるいは、革命的ロマン主義を拐るただの出世主義者)が州知事に任命されていた。この人々は「市場経済」「民主主義」といった言葉を声高に叫ぶが、実際には統治能力も政治手腕もなく、地方政界にもめ事を起こすのみであった。この人々は、1992年の末から1996年の初めにかけて順次更迭された。最後まで残った革命的ロマン主義者は、チェリャビンスク州知事ワヂム・ソロヴィヨフであったが、彼は1996年12月の州知事戦で完敗した。第2の軌道修正期、1994年の初めには、大統領全権代表の更迭が始まった。「王の目」として急進改革主義を上から持ち込むことを当初期待された大統領全権代表職は、もともと革命的ロマン主義者に向いた役職であった。エリツィンが地方エリートの分割統治政策を止めたことの当然の結果として、革命的ロマン主義者が大統領全権代表職から解任された後の空席は、多くの場合、当該州知事の腹心の部下によって埋められた。大統領全権代表の入れ替えは州知事の更迭よりも速いピッチで進み、1995年には完了した(16)。

1995年、チェルノムイルヂン首相は、「我らが家ロシア」を発足するにあたって、従来左翼とみなされていたオリョール州知事E・ストローエフのような人物も抱き込んだ。同年夏のスヴェルドロフスク州知事選挙の結果を受けて、エリツィンは復活した州知事ロッセリとの間で条約を締結し、2期目への支持をとりつけた。1993年憲法がまがりなりにも対称的連邦の原則を確定したことが、このロシア人工業州を再びエリツィンの牙城とすることを助けたのである。

以上に見たように、革命的ロマン主義の清算、州エリートとの妥協、対称的連邦制の形成、という3つの過程は三位一体をなし、1996年大統領選挙に向けた地方行政府の総動員へと収斂していったのである。

7 地方自治法とボス支配

次に、変化の第2の側面、地方自治制の形成を考察する。1995年に採択されたロシア連邦地方自治法(正確には「ロシア連邦における地方自治組織の一般原則に関する法律」)を1991年に採択されたロシア共和国地方自治法と比較し、さらに1995年法に向けた主要な

 

 

 

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