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確立をはかったのである。ここでは十分に“首都性”が意識された。しかしその“首都性”は反中央・反国政というイデオロギー色の濃いものであった。その結果“革新”の首都が、全国の地方自治体をリードするというムードが醸成されたことは疑いえない。だが、70年代後半の高度成長の終焉とそれに伴う都財政の危機の進行が、末期の美濃部都政をマヒ状態におとしいれる。同時に今度は都知事の行きすぎた「象徴性」を元に戻すべく、「実務性」への揺りもどしが始まった。

8 鈴木知事が広げた「都知事」の座

 すなわち1979年選挙では、相変わらず「象徴性」を夢見て元総評議長太田薫を推した“革新”に対し、自公民による“保守・中道”は、候補の選出過程において12年前とはまったく逆に「象徴性」の幻想を捨て、「実務性」の見地から、元副知事鈴木俊一を立てて勝利をおさめたのである。かつてのエ一ス鈴木俊一の復活は、都知事権力のあり方に他に類例をみない特色を付与することになった。そもそも鈴木は美濃部時代でさえ、首都高速道路公団理事長など都関連の役職を務め、決して都政と無縁であったわけではない。したがって鈴木は都知事に就任するや、満を持して都政のプロとして、都財政の立て直しを始め、マイタウン東京構想に集約されるハードの部分の改造や、さらには生活文化行政や都市外交の推進など、着実に歩みを進めていった。
 以後4期16年の鈴木都政は、国政レベルの中曽根政権のように審議会方式による政策決定があからさまに喧伝されることはなかったが、私的懇談会方式を多用するやり方をとっている。また政策課題的にも、民活や東京問題をめぐって、中曽根政権と鈴木都政とは最もニアミスをおかしやすい状況にあったが、キャリアの長い鈴木が都庁をバックに結局は事態をうまく収拾したと言わねばならない。
 かくて鈴木知事は「実務性」を標楴しながら、次第に「象徴性」をも併せ持つべく変貌を遂げていく。すなわち自らが副知事を務めた東都政が、中央に随伴するという意味で「作中央」だとすると、当然のことながら美濃部都政は「反中央」であり、鈴木都政はそのいずれでもなく、中央に対して半身に構えるという意味で「半中央」ということになろうか。「半中央」だからこそ、91年(平成3)選挙において小沢幹事長ら中央によるNHKジャーナリスト磯村尚徳の擁立に対して、鈴木は4選出馬に踏み切ったと言えよう。しかも80歳の鈴木が高齢ゆえに若さのパフォーマンスを行い、あえて「反中央」を唱えた

 

 

 

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