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よび地方自治法の制定という、都知事権力確立の要になる戦時戦後の制度改革に深く関与していた。その意味では、鈴木は内務官僚の主流であると同時に安井都政の嫡流でもあるという稀有の存在にほかならなかった。
 だが東都政下において、鈴木副知事が復興から高度成長への政策を忠実にトレースし、あまりにみごとに東京オリンピックの演出をなしとげたことが、逆にオリンピック後の新たな状況設定に再度“保守”の側が立ち遅れる原因となった。しかも、あたかも戦前の市会スキャンタルを術佛とさせる都議会汚職が勃発し、世論の指弾の前に1965年都議会は解散され、刷新議会では社会党が第1党になるという未曽有の出来事が生じるに至った。

7 “革新”知事の「象徴性」

 この動きは直に都知事選に連動し、2年後の67年選挙では“革新”が勝利し、美濃部亮吉というタレント型学者知事が誕生したのである。都知事権力のあり方を変える第3のエポックは、まさにこのトラスティックなできごとの中に反映されることになる。では、なぜ嫡子鈴木俊一は出馬断念に追い込まれたのであろうか。それは何よりも“保守”の側が都政レベルはおろか国政レベルでも、70年安保を前にした大学紛争や、公害問題に帰結する高度成長のひずみ批判など、続出するイデオロギー過剰な争点群に対して、柔軟な対応ができなかったことによる。これに対して“革新”の側は、新しい状況への対応のために、有田に続いて再度都知事に「実務性」ではなく「象徴性」を求める戦略に出た。そこで“保守”もまた「束副知事、鈴木知事」とまで言われた東都政末期の硬直性を払拭する必要に迫られ、「象徴性」の選択を余儀なくされることになった。だがこの「象徴性」対決では、名門の出自からくる貴族性とそれゆえの革新性、またタレント性など、大衆受けする人気のレベルで美濃部の方が松下正寿をはるかに上まわっていたと言ってよい。
 かくて成立した“革新”都政は、以後12年間、「人気のドーナツ化現象」と言われ、まさに「象徴性」を十分に発揮した美濃部知事に、都政調査会の小森武が文字通り美濃部の「分身」として「実務性」の担い手役を果たす形で展開された。そして実際に美濃部都政は、「ストップ・ザ・サトウ」のスローガンに象徴される反中央意識を明確にし、福祉・教育・公害・住民参加などソフトサービスの領域で、国政とは異なる独自の都政の

 

 

 

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