日本財団 図書館


第三部門/特定分野の功績【ハッピーファミリー賞】
山本 一春(やまもと かずはる)
(昭2.9.8生)宮崎県宮崎市
山本 若子(やまもと わかこ)
(昭2.11.9生)宮崎県宮崎市
 
 最重度障害をもった孫の誕生をきっかけに障害児とその家族等を毎年芋掘りに招くボランティアをはじめて30年。一家は孫を中心に3世代が強い家族の絆で結ばれている。
推薦者:児玉 龍典
 
Mr. Kazuharu Yamamoto (born September 8, 1927) Miyazaki City, Miyazaki Prefecture
Ms. Wakako Yamamoto (born November 9, 1927) Miyazaki City, Miyazaki Prefecture
 
 Since the birth of a grandchild with severe disability, the Yamamotos have engaged in volunteer activities that involve inviting children with disabilities and their families to dig sweet potatoes every year. They have continued this practice for 30 years. The Yamamoto family enjoys a strong family bond, as three generations hold together with the grandchild at the center.
Recommended by: Mr. Tatsunori Kodama
 
 1973年、山本さん夫妻に二分脊椎と水頭症という難病を持った初孫が生まれた。「守」と名付けられた。医学の粋を集めた処置で命は取り留めたものの、身体障害者手帳1種1級、最重度の障害児となった。2年後、弟武寛君が生まれた。障害はなかった。山本さん夫妻、娘夫妻、守・武寛兄弟の3世代6人の一家は、守君を中心に互いを思いやる強い絆に結ばれた家族となった。
 1975年、守君が行った先々の施設や病院で良くして貰った恩返しにと、山本さんは障害を持つ子ども達とその家族を無料芋掘りに招待して楽しく土に親しんでもらうことにした。自分の畑、約1,000坪に芋を植え、収穫時期に在宅障害(児)者や施設の人々30か所、およそ1,000人ほどを招待した。招待者は1975年秋から2005年までの30年間に約3万人に上った。
 マイクロバスで芋畑に着いた子供たちは秋風の中、陽光を浴びて芋を掘り歓声を上げる。泥だらけになって掘る肢体不自由児、丁寧に掘る視覚障害児、力の限り走り回っては掘る知的障害児、掘った芋を寮の先生にあげる孤児達。どの子も夫妻にとっては孫であった。芋堀りが終わると一春さんは、赤い大型トラクターに一人ずつを乗せて畑を回った。子ども達の成長につれて招待先は福祉作業所や成人施設、老人福祉施設等へと拡がって行った。招待者間の交流も拡がった。招待に対する山本さんへのお礼の手紙は30年間で大きなダンボール箱2杯になった。山本さんの宝物である。
 
 現在、32歳になる守さんは宮崎市役所の委託職員として得意のパソコンを駆使して市の身体障害者体育館の運営実務をこなしている。芋掘りへの招待活動は、開始から30年の節目を迎え、守さんが自立し、山本さん夫妻が共に80歳を迎えることで、昨年をもって終えることにした。
 
 
 
受賞の言葉
山本一春
 この度は身に余る賞を戴き、喜びと驚きが交錯いたしております。
 実は私、表彰式当日、常陸宮殿下から直接お言葉を賜りました。「本日はおめでとうございます。遠い所からよくお越しになりました。」と・・・。80歳になる私の人生でこんなに輝く日があったことを一生忘れません。ありがとうございました。
山本若子
 この度はありがとうございました。本当に光栄に存じます。
 私たち夫婦は障害をもつ方々へ無料での芋掘り招待を30年間続けてまいりました。芋掘り開始当時に来ていただいた子供さんが、結婚され子供を連れて芋掘りにいらっしゃいました。改めて30年の歳月を感じます。芋掘りを通じての延べ3万人との交流は私の宝物です。
 
子ども達からの手紙に囲まれて
 
収穫後の記念撮影
 
子ども達と一緒に
 
「整枝学園」運動会
祖父・一春さん、母・順子さん、長男・守さん
 
西川 カオル(にしかわ かおる)
(大11.8.19生)北海道虻田郡
 
 1947年、16人の大家族の農家の長男に嫁ぎ、嫁としてそして母親代わりとして、朝早くから夜遅くまで農作業をしながら、生活をやりくりし家族の融和に努め、弟7人の独立、姉妹7人を嫁がせるとともに、子供4人を育てあげた。
推薦者:濱岡 則子
 
Ms. Kaoru Nishikawa (born August 19, 1922) Abuta County, Hokkaido
 
 In 1947, Ms. Nishikawa married the eldest son of a large farming household having 16 members. First as a young wife and then as substitute mother, she worked in the fields from early in the morning to late at night, while at the same time trying to make ends meet and maintaining harmony in the family. She simultaneously raised her husband's seven younger brothers to independence and married off his seven younger sisters, and brought up four children of her own.
Recommended by: Ms. Noriko Hamaoka
 
 西川家は、祖父の時代に、福井県から北海道に大志を抱いて渡り、裸一貫で荒地を開墾し畑を持った農家で、「三健和合」という家訓がある。「身体・精神・経済」が健全であってこそ、平和で幸せな人生が歩めるというものである。
 戦後間もなくの北海道の農村で、大家族で食べていくことは容易なことではなかった。そんな中、西川さんは夏は未明から暗くなるまで、家族総出で農作業、そして冬は暗いうちから雪道を歩き4km離れた小学校の用務員、その後は冬山の砕石現場のアルバイト等をしながら、暇なしに働いて家計を助けた。嫁姑の関係では、常識非常識は相手の常識で判断した。また自分の子供と兄弟姉妹の関係は、相手の身になって考えるよう諭し、和をもって善しとし、大家族の中で起こる毎日の様々な不平不満からの諍いを上手にまとめた。子供の教育は農作業をしながら対話方式で行い、畑の地面や雪を黒板代わりに、親として教えられることの全てを教えた。
 
 親身に看病したお姑さんが他界してからは、一家の母親としても心を配った。現在西川さんは84歳、子供たちを全員独立させ、ご主人を数年前に亡くし、住み慣れた実家で一人暮らしをしている。実家は約50年前に家族総出で山から切り出した材木で造った思い出の家である。高齢での一人暮らしを心配する長男の家に冬期間だけ身を寄せ、4月を待たずに実家に戻って農作業をしている。
 西川さんの人生を振りかえると、勤勉で人生に真っ直ぐだった日本の母親たちがいたからこそ、今日の日本があるのだと思わずにいられない。
 
 
受賞の言葉
 この度は 名誉ある賞を頂き 感謝いたしております。
 今まで周りの皆様に助けられ、ただ一生懸命生きてきただけなのに、本当にありがとうございます。
 思い返せば、あっという間の年月でした。多くの兄弟姉妹の方が自立していく姿と、子供達が育つ喜びの日々が苦労を癒してくれたと思います。
 今まで私を支え、助けて頂いた皆様に感謝いたします。
 これからは、子ども達、孫達に見守られ楽しく生きていきたいと思います。
 
昭和50年頃の農作業
 
 


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION