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Dr. Arturo(あるとぅろ) C.Cunanan(くななん), Jr.(じゅにあ) MD, MPH
(1958.9.6生)フィリピン
 
 90年以上にわたりハンセン病患者隔離の島であったフィリピン クリオン島で、MDTによりハンセン病の完全制圧に成功し、回復者自立のための自助努力を支援するかたわら同島の歴史の検証とアイデンティティの確立に貢献した。
推薦者:紀伊國 献三
 
Dr. Arturo C. Cunanan, Jr. MD, MPH (born September 6, 1958)  Philippines
 
 Dr. Cunanan succeeded in completely controlling Hansen's disease through MDT on the Philippine island of Culion, where sufferers of the disease had been isolated for more than 90 years. He has also supported the self-help efforts of people recuperating from Hansen's disease to maintain themselves, while examining Culion's history and establishing its identity.
Recommended by: Mr. Kenzo Kiikuni
 
 ハンセン病患者を祖父母としてフィリピンのハンセン病患者隔離の島クリオン島に生まれたクナナンさんは、様々な障壁を乗り越えてマニラの大学を卒業し、ハンセン病専門医として1986年故郷クリオン島に戻った。クナナンさんは当時WHOが推奨を始めた多剤併用療法(Multi Drug Therapy-MDT)を他地域に先駆けてクリオンに導入しようと決意し、新しい治療法への患者達の根深い不信感と抵抗に対して、将来のクリオンがハンセン病のない島となるためにはMDTの服用でハンセン病を完治して感染源を断つ必要があると粘り強く説得を続けた。時には患者宅を訪問し、時には山の中まで患者を探して治療を続けた結果、2000年には島内の全ての患者への治療が終了し、クリオン島のハンセン病を完全に制圧するに到った。この実績を評価され、クナナンさんは、請われて南太平洋の国々にも赴き、ハンセン病制圧活動を指導して大きな成果を収めている。また回復者組織の成立を援け、回復者とその家族の経済的自立のために、小額貸付制度の創設、養豚事業、就学援助、就職支援プログラムの立案と実施など、回復者の自立のための自助努力を支援している。
 1906年5月、最初の患者370人が到着して以来送られた患者は総計3万5千人とも4万5千人とも言われ、「絶望の島」「生ける死者の島」とも呼ばれた保健省直轄の隔離の島クリオン島は、2001年に地方自治体クリオン市として新たに出発した。数年前からクナナンさんを中心にクリオンの新しい100年への出発のために、住民の75%が元患者の子孫であるこの島100年の歴史の検証が始められている。クナナンさんは「隔離の歴史に背を向けるのではなく、その中で生き抜いた先祖たちの誇るべき姿を島の財産にしたい」と、過去の歴史を検証し島のアイデンティティを確立するため、島に残る数々の資料を整理保存する作業に着手した。今日、かつて世界のハンセン病研究のメッカとなったクリオン島の研究施設は、クナナンさんの努力で歴史資料館となり、過去100年の医療、施設、生活の貴重な資料の整理保存作業が続いている。
 
 
受賞の言葉
 社会貢献支援財団並びに笹川記念保健協力財団に対して、我々の活動目的を信頼してクリオン及び、私の家族が私の理想と使命と情熱を理解し分かち持つことを支援下さったことに感謝します。また、私のスタッフが同じ献身と犠牲的精神を持って共に働くことへの支援に感謝します。中でも私はこの賞をクリオンとハンセン病回復者および私のひらめきと目的に捧げます。一度しかない私の人生で、仲間達のために私ができる良いことは今すぐに遅滞なく行います。
 
 
フィリピン共和国
 
回復者の家族の診断
 
クリオン歴史資料館
 
クリオン開所100周年記念碑の前で
 
クリオン島(山肌に保健省直轄のシンボル)
 
大森 和夫(おおもり かずお) 大森 弘子(おおもり ひろこ)
(昭15.4.22生)東京都江東区 (昭15.8.16生)東京都江東区
 
 中国で日本語を勉強する大学生に日本と日本人を理解してもらうため、日本語で書いた教材「日本」を作成・寄贈し日本語作文コンクールを開催するなどの活動を、私費を投じて17年間続けている。
推薦者:高 媛
 
Mr. Kazuo Omori (born April 22, 1940)  Koto Ward, Tokyo
Ms. Hiroko Omori (born August 16, 1940)  Koto Ward, Tokyo
 
 For 17 years, Mr. and Mrs. Omori have prepared and donated a Japanese-language educational material entitled Nippon to universities in China at their own expense. This publication is designed to help university students who are studying Japanese in China understand Japan and the Japanese people. They are also engaged in various activities for Chinese students that include holding Japanese writing contests.
Recommended by: Ms. Ko En
 
 大森和夫さんは、1989年1月に長年勤めた新聞社を定年前に退社して国際交流研究所を設立し、妻の弘子さんとアジアの若者に日本語で日本と日本人を理解してもらう活動を始めた。きっかけは新聞記者として留学生問題を取材した時、中国の留学生から日本について多くを知って理解したいがそれが出来ずに日本を嫌いになって帰国する留学生が多いと聞いたことだった。
 89年3月に季刊誌「日本」を創刊。内容は、日本の社会、文化、政治、文学のほか日本留学生の生活に役立つ情報などで、すべてにルビを振った。1号から97年3月の第33号まで毎号2万〜4万冊を国内の大学や日本語学校、海外の大学等へ無料で配布した。年4回の発行は大変な労力を要し送料など費用の問題もあったため、季刊誌「日本」の第1〜33号までをまとめて日本語を学ぶ学生用のテキストに手直しした日本語教材「日本」を作成した。編集、校正、追加の挿し絵や写真は弘子さんが描いたり撮影し、取材もなるべく自分達で行った。寄贈先は、それまで一番反響が多かった中国の大学に絞ることにした。これまでに15,000冊の「日本」を中国のほとんどの大学へ寄贈した。
 また、1993年から2004年まで毎年、中国の大学生を対象に「日本語作文コンクール」を行った。募集から審査、授賞式に至るまでの作業も2人でこなした。その間の応募総数15,538編。応募や入賞がきっかけで日本語教師になった学生も多い。2006年には、「日本語スピーチ・討論コンテスト」を行う。中国の大学院生が対象で、院生の話す力を向上させたいとの教師からの相談がきっかけだった。彼等の多くが将来外交官や日本企業を担う人材となるため、日本人と対等に討論出来ることを目標とした。またコンクール出場のための練習が学生の日本語力を向上させている。表彰式は上位20名が出席して北京で行われる。式にかかる費用、学生や審査員の旅費なども夫妻が負担している。
 大森夫妻は、将来「日本」が不要になること、つまり学習に適したテキストが中国側で作られて全学生の手に渡り、日本語学習の環境がより良くなることを願っている。
 
 
 
受賞の言葉
 日本と中国の友好にとって国民の相互理解が最も大切です。特に、中国で日本語を学ぶ学生は日中友好の架け橋です。一人でも多くの中国の若者が日本を理解して、日本ファンになってもらいたいと願っています。
 夫婦の力には限りがありますが、栄えある賞を頂戴した感激を忘れずに「日本語交流」活動を続けていきたいと思います。
 
第一回「中国の大学院生『日本語スピーチ・討論』コンテスト」
 
一等賞の学生
 
日本語教材「日本」
 
中国の学生たち
 
日本語作文コンクール表彰式
g
 
作文コンクール応募作品
 
コンテスト受賞者の院生


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