年号
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西暦
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月日
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出来事
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備考
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寛永一二 |
一六三五 |
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松前藩、藩士に蝦夷島を探検させる。
初めて、国後、択捉などの北方の島々の地図が作成される。 |
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正保元 |
一六四四 |
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幕府、諸藩に国絵図の提出を命じ、日本総図(いわゆる正保御国絵図)が作られる。
松前藩が作成した松前絵図の中に千島列島の三十九の島々が描かれる。 |
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天明六 |
一七八六 |
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最上徳内、幕命により択捉島、得撫島を踏査。 |
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寛政一〇 |
一七九八 |
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幕府、近藤重蔵を択捉島に派遣。同島タンネモイに「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。 |
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寛政一一 |
一七九九 |
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幕府、東蝦夷地を直轄地とし、駅逓を設け、守備兵を置く。
高田屋嘉兵衛、択捉航路を開く。 |
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寛政一二 |
一八〇〇 |
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幕府、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛を択捉島に派遣。
会所を設け、十七カ所に漁場を開く。
近藤重蔵、同島カムイワッカオイに「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。 |
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文化八 |
一八一一 |
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ロシア艦ゴローニン船長、国後島で捕らえられる。 |
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文化九 |
一八一二 |
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高田屋嘉兵衛、国後島沖でロシア艦に捕らえられる。 |
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文化一〇 |
一八一三 |
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ゴローニンと高田屋嘉兵衛の相互釈放が行われる。 |
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嘉永六 |
一八五三 |
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ロシア国使節プチャーチン、四艦を率いて長崎に来航。 |
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嘉永七 |
一八五四 |
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プチャーチン、三艦を率いて長崎に再来航。 |
樺太定境、通商に関し覚書を送付。 |
安政元 |
一八五五 |
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日露通好条約(下田条約)締結。 |
択捉島と得撫島の間を両国の国境とし、樺太はこれまでどおり混住の地とする。 |
明治元 |
一八六九 |
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明治政府、開拓使を設置。
蝦夷地を北海道と改め、十一国八十六郡を置く。
択捉、国後の両島は千島国とし、色丹島、歯舞群島は根室国の一部となる。
択捉島に。振別郡、択捉郡、紗那郡、蘂取郡の四郡を置き、国後島には国後郡の一郡を置く。色丹島、歯舞群島は花咲郡の一部となる。 |
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明治八 |
一八七五 |
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「樺太千島交換条約」締結。 |
日本は得撫島以北の千島列島を譲り受けるかわりに樺太全島を放棄。得撫島以北の千島列島が日本領となる。 |
明治九 |
一八七六 |
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千島国に得撫、新知、占守の三郡を置く。 |
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明治二一 |
一八七九 |
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郡区町村編成法により、根室、振別に郡役所を設置。 |
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明治一五 |
一八八二 |
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開拓使を廃止。札幌、函館、根室の三県を設置。 |
北海道三県時代。 |
明治一七 |
一八八四 |
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占守島のアイヌ人九十七人を色丹島に移住。 |
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明治一八 |
一八八五 |
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花咲郡のうち色丹島を色丹郡とし、千島国に編入。振別の郡役所を紗那に移転。 |
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明治一九 |
一八八六 |
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三県を廃し、北海道庁を設置。 |
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明治三〇 |
一八九七 |
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郡役所を廃止し、支庁を設置。根室に根室支庁、択捉島の紗那に紗那支庁を設置。 |
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明治三六 |
一九〇三 |
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紗那支庁を廃止し、根室支庁に統合。 |
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明治三八 |
一九〇五 |
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「日露講和条約」(ポーツマス条約)締結。 |
南樺太(北緯五〇度以南)が日本領となる。 |
大正八 |
一九一九 |
四月一日 |
富山清人さん生まれる。 |
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大正一〇 |
一九二一 |
一一月一八日 |
鈴木としさん生まれる。 |
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大正一二 |
一九二三 |
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振別郡を紗那郡に合併。
戸長役場制度を廃止し、町村制を施行。
択捉島に紗那村、留別村、蘂取村の三村、国後島に泊村、留夜別村の二村、色丹島に斜古丹村の一村を置く。
歯舞群島は、根室半島の一部の地域とともに、歯舞村に属する。 |
歯舞村は、昭和三四(一九五九)年に根室市と合併したため、歯舞群島は、現在根室市の行政区域に含まれている。 |
大正一三 |
一九二四 |
四月一七日 |
永塚良さん生まれる。 |
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九月一日 |
楠木秀夫さん生まれる。 |
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昭和三 |
一九二八 |
一一月一一日 |
竹脇昭一郎さん生まれる。 |
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一二月二〇日 |
橋本三治さん生まれる。 |
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昭和四 |
一九二九 |
一月四日 |
岩田宏一さん生まれる。 |
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一〇月一二日 |
若松富子さん生まれる。 |
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昭和八 |
一九三三 |
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色丹島の斜古丹村を色丹村に改称。 |
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昭和一六 |
一九四一 |
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「日ソ中立条約」締結。 |
日ソ相互の領土不可侵等を定める。 |
昭和一八 |
一九四三 |
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「カイロ宣言」署名。 |
領土不拡大の原則等を定める。 |