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フォーラム本編
マンガフォーラム第4回「マンガの光と影・害悪、影響も考える」
■コーディネーター挨拶・パネリスト紹介
 谷川――マンガと教育をテーマにフォーラムを続けていますが、今回は、光と影というテーマを企画しました。
 静岡大学の馬居政幸先生は、団塊の世代で、「少年マガジン」を読み続けながら大人になってしまったような方です。『なぜ子どもは「少年ジャンプ」が好きなのか』(1993年、明治図書出版)という本を出されていて、私にとってはマンガの恩師のような方です。
 関西学院大学の荻野昌弘先生は、比較社会学がご専攻ですが、パリで研究をして学位を取られました。幅広い活躍をされていますが、『マンガの社会学』(2001年、世界思想社)という本の中ではマンガの光と影について触れておられますので、ぜひお話を伺いたいと思いました。
 本日お招きしたマンガ家は、ホラー作家の草分け的存在で現在も第一線で活躍されており、「ホラークイーン」と呼ばれている、犬木加奈子先生です。
 最初に、日下会長から基調提案として、お話しいただきます。
 
■基調提案(日下公人)
 日下――大阪駅から南に行った毎日新聞社ビルの1階に大きい本屋があります。本屋にマンガコーナーがあるのは当たり前ですが、ここにはマンガ評論ばかりが200冊ほど並んでいるコーナーがありました。世の中ではマンガ学らしきものが誕生しつつあるんだな、と思って、5、6冊買ってきて読んでみました。我々はマンガをただ読んでいるだけですが、それを紹介したり、評論したり、解説したりされると、なるほどそういうものかと感心いたしました。これを参考にしてよりよいマンガが作られるかどうかは、私には分かりませんが、もう「マンガか」などといっている場合ではないと思います。
 日本では、ハートツーハート・コミュニケーションが当然あるものと思われています。ところが欧米では、コミュニケーションは、言葉の定義を明らかにして、それを論理的に並べて、ディベートして、ようやく相互に理解できるものということになっている。この違いがマンガにも現れていて、向こうのマンガはよく喋ります。犬でも子供でも、理屈ばかり言っている。
 日本ではあまり喋らない。それどころか、やたら目玉が大きくて、その目玉に光がちょっと入ったりするだけで話が通じてしまう、不思議なマンガができております。「目は口ほどに物を言う」ので、言わなくても分かるものだという、日本の習慣、歴史、コミュニケーションの伝統がそのままマンガに出てきている。これを外国の人は奇々怪々と思うが、子供はどんどん慣れていくものです。例えば、ポケモンのピカチューは喋らない。「ピカチュー」とか「ピカピカ」だけだが、これが怒っているのか、抗議をしているのか、アメリカでもヨーロッパでも子供には分かる。親は論理的に喋れと教育しますが、子供は親を逃れてピカチューを見ると心が安らぐ。
 という訳で、日本人そっくりの子供がアメリカやヨーロッパに出てきているのではないかと、私は大袈裟に考えました。小学館の久保雅一さんに、「なぜピカチューは喋らないのですか」と尋ねたところ、「いずれは喋らせる予定だったけれど、評判がいいからこのままいくことにした」と。これは日本風がそのまま外国に通用したのだと思っております。そんなふうに日本のマンガは、ハートツーハートで外国人を感化しています。
 マンガはもともと、マスコミではなくミニコミでした。場末の文化ですから、相当おかしくてもよかった。上の人や体制の悪口を言いたい時は、マンガで描けばよかった。毒があると言ってもいいし、諷刺が入っていると言ってもいい。不自由な弾圧された世界の方が、いいマンガができるという一面があります。今、日本はあまりにも幸せになってしまったから、毒のあるマンガはなく、ただ可愛いマンガばかり出てくる。その可愛いところで世界を席巻している訳ですが、それ以外にもある。
 犬木さんのマンガもそうですが、日本人が作ると自然にお化けがいっぱい出てくる。お化けの話には、みんなの足並みがそろう。これが日本とキリスト教文化の違いなのかとも思います。『もののけ姫』のようなものをアメリカ人は、非合理的である、子供の教育に悪いなどと言います。しかし、そういう文明、文化のほうが滅びていく、理屈倒れである、理性だけでは立派な子供には育たない、という仮説を私は立てておりまして、これが証明される日が来るのを楽しみに待っています。
 こういう私の気持ちを皆さんが訂正するなり、発展するなりしてくださることを願って、こういう企画をしました。
 
■光と影のミックス(馬居政幸)
 馬居――今回のテーマは「光と影」ということですが、何が光で何が影かが定義されていません。ところ変われば、影が光になり、光は影になります。あるいは、光は影がなければ光ではなく、影は光によって生まれてくるので、光と影は一体で考えなければならないと思います。文化全体の中でいえば、マンガは、どちらかといえば影の世界の部分を担ってきたメディアだったと思います。それが、いつのまにか光の世界に出てきてしまった。そのため、毒気を抜くことを要求されて、あたふたしている面があるかもしれません。
 それでも、新たな光と影の世界を表現するマンガが読者の支持を得てきています。たとえば、日下会長から、日本のマンガは目が大きく、喋らないというお話がありましたが、最近は結構多弁になってきています。それも、以前は言葉にしない世界は言葉にできなかったのですが、今のマンガは、独自の方法を用いて、言葉にしない世界を言葉にしていく、言い換えれば、喋っていないのに喋ったと同じ効果をもたらす表現を試みています。
 資料を用意しましたので見てください。これは女子中高生に最も人気のある作家の一人である矢沢あいの『パラダイス・キス』からとったものです。
 扉のページから次のページには、手や目のアップが多く、文字は「誰?」「やめて」「触らないで」「ばっ」とあるだけです。この2ページで一瞬を表現しているのです。日下会長の言われる通り、ほとんど言葉なく進んでいきます。
 しかし、実際には、表に出た言葉と、心の中の言葉と、同時にその雰囲気を絵で描くというように、人の心の動きを何重にも重ねながら表現しています。その重なりの中に読者の心も入り込むことで、言葉にならない言葉を読み取る、あるいは聞くといった方が正確かもしれません。逆に、これらを瞬間的に読み取らないとマンガは読めないわけです。
 確かに文字として明記されている言葉は多くはないけれど、ここで語られている世界の複雑さはかなりのものがあります。もし、これを文字だけで表現しようとすると大変なことになるでしょうし、読者は逆に、かえって意味を読み取ることができないと思います。もともと言葉で表現しない世界を表現しようとしているわけですから。
 実際には、文字で表現できる世界はものすごく限定されていて、それをよりリアルに、私たちが思い悩む世界に近い形で表現できるメディアとしては、たぶん少女マンガの系列の中で育ってきたものが一番優れていると思います。こうした深みのある表現で、光と影が両方表現されているのです。同時に、それは、何が光で何が影かが分からなくなってきている現実を描こうとしている、とみなすこともできます。ちなみに、少年マンガの系列はもう少し単純、あるいは直線的で、その分、キャラクターはもっと多弁な場合が多いといえるでしょう。瞬間の中の光と影よりも、光の役割を担ったキャラと影の役割を担ったキャラの闘争を通じて光と影の役割が交換する、といったストーリーがよくあるパターンです。その意味で、単純な勧善懲悪ではリアリティを感じ取れない読者の世界にある、もう一つの光と影の表現という言い方ができるかもしれません。
 ところで、光を光とする、つまりみんながよいというものを表現しようとしている典型が、学習マンガでしょう。そして、影を影とするのが、いわゆる、エロ・グロ・ナンセンスと言われるもので、社会的には批判されますが、これこそマンガの栄光だと思います。そのセンスは大作家と言われる人たちもさまざまなところで使っています。みんな危ない絵を描きながら磨いてきたし、表現したかったのではないでしょうか。
 エロス、セクシャリティを採り入れることによって、現実の人間の世界により近づく。言い換えると、影の部分を描けない作家は、特定の何かを伝える手段としてマンガを使うことはできても、自分の表現したい世界をトータルに描くことは、多分できない。光は影があってこそ光であり、影は光があってこそ影なので、問題はそれらをどのように交錯させたり重ねたりしながら表現するかということです。
 ちなみに、戦後のマンガの流れの中で、影の部分に焦点を当てながらそれになりに評価されるようになったものが、劇画です。それが今のマンガの基本構造を規定しています。そして、劇画の手法と、それ以前に手塚治虫によって開拓された手法が重なりながら、1990年代初めのジャンプワールドが成立したのだと思います。
 
■「ジャンプ」は学校にない世界だった(馬居政幸)
 私がマンガに興味を持つようになった理由の1つは、自分がマンガを好きだったからです。もう1つは、子供たちが選んできたマンガの世界とは何かということへの好奇心です。
 1990年代初めに「少年ジャンプ」が600万部以上を売るオバケ雑誌になりました。少年誌が対象とする年代の男の子を全部合わせて600万には足りません。ということは、女の子も含めて日本の中学生がほぼすべて読んでいたことになります。
 日本の教育界では、子ども中心主義ということがプラスイメージで語られてきました。しかし、その一方で、多くの教育者はマンガをマイナスイメージで取り上げることが多かったはずです。子どもが自ら選択した世界がマンガであったにもかかわらず。
 このことに疑問をもったわけです。敢えて言えば、子どもが選んだ「少年ジャンプ」の世界がどのようなものなのか、ということについて知ることなく、子どもとその教育について語ることはできないと考えたわけです。
 そこで様々なデータを調べてみると、学校の拡大とともにマンガ雑誌の発行部数も増加していることに気が付きました。たとえば、戦後日本でマンガ雑誌の興隆が最初に話題になったのは少年マガジンが「巨人の星」や「あしたのジョー」を有して100万部を達成した1968年から69年にかけてです。いわゆる団塊の世代が大学生になったときであり、大学紛争とともに、大学の大衆化が問題視されたときでした。
 それに対して、80年代半ばから少年ジャンプの独創が始まり、90年代初めには600万部を超えます。出版界や子ども文化の範囲をこえて、社会現象とまで言われました。他方で、それは団塊ジュニアが小、中、高、大と進学する時期であり、偏差値が社会問題化される過程でもありました。この二つの現象を重ね、私は子どもの成長過程において学校が占める割合が大きくなるとともに、子どもたち自身が選んだのがマンガ雑誌であり、ジャンプワールドであった、と位置づけ、その理由を次のように考えました。
 子どもの成長とは、男の子が男になり、女の子が女になることでもあります。一方で、学校は中性を育てることはできても、男と女を育てることはできません。もちろん、男女平等という立場から、学校教育が性差を基準に行われないことは重要なことですが、より積極的に、不純異性交遊という言葉が象徴するように、学校では男子が男であることを、女子が女であることを拒否してきました。しかし、子どもたちが一人前のおとな(人間)として生きていくための術として、性交渉の方法も含め、男であること、女であることを表現する知識、技能を獲得しなければなりません。
 思春期を迎え、自分の内から湧きあがってくる様々な欲望をどのようにコントロールするか。それを誰が教えるのでしょうか。「親が」という答えがよく返ってきますが、これまでの日本社会で、15歳を過ぎた子供たちを親が躾る世界はありませんでした。親の責任は思春期に入る前までであって、それ以後はその周りにいる仲間や年長者、あるいはそういう分野を担う様々な社会制度が別にありました。それらの崩壊と学校の拡大は同時に進みました。しかし、学校はその役割を担うことができなかっただけでなく、より積極的に子どもたちの世界からそれらを排除してきました。そのときに、多分一番とっつきやすい形で選択されたのがマンガの世界であり、ジャンプワールドではなかったかと思います。
 人間が持っている影の部分を誰が担うのか。学校は影を排除するだけだったし、日本の社会は影の部分は自然に身に着くと思っていました。ところが実際には、影を付けるためにはそれなりの仕組みが必要だったわけで、いわばそのあだ花が「ジャンプ」だったのではないか。それが90年代の私の分析でしたが、2000年代に入って少々迷っています。マンガにかっての勢いを感じられなくなったからです。それから、男と女の世界を問題にしながら、結局は男のみに焦点をあててきたからです。
 話は飛びますが、先ごろ、中国の内モンゴルの中心都市であるフフホトに行ってきました。私は、アジア各地のマンガを集めているので探してみたのですが、『クレヨンしんちゃん』『ドラゴンボール』ぐらいで、ほとんどありませんでした。いろいろな店を回ってみたら、『ヒカルの碁』『天使禁猟区』などのポスターを売る文房具店がありましたが、いずれもアニメから複写したものでした。訪問した小学校で子どもたちに日本のマンガについて質問したところ、『クレヨンしんちゃん』や『スラムダンク』を知っているという声が上がりましたが、それはアニメのことでした。
 97年に中国の東北地方を旅しましたが、そのときは北朝鮮との国境がある町の小さな売店にも『ドラゴンボール』の単行本が売られていました。韓国で初めて日本のマンガに出会ったのは92年でしたが、田舎の書店にジャンプワールドが所狭しと並んでいました。
 現在の日本のマンガについて、私は少年マンガはかなりボルテージが下がっているように思えてなりません。友人の編集者によれば、多くの才能がゲームにいっているからだ、ということのようです。少しさびしい気分になっていたのですが、少女マンガの系列から新たな世界を見出しました。より正確には、少年マンガ(雑誌)、少女マンガ(雑誌)というマンガとその媒体のジャンルを超えて、少女マンガで培われてきた技法が、マンガの新たな可能性を開いていることに気がついたからです。
 そのことを象徴するのが、少年マンガ雑誌に掲載されるマンガキャラの中に美形が多くなっていることです。私の研究室の女子学生に聞くと、ある種、今の子たちの心を表現する合わせ鏡みたいな世界であると同時に、ファッション、センスをそこから感じ取っていくものだと言うのです。ストーリーを楽しむと同時に、自分たちの美意識を確認する、あるいは共有する手段として、マンガというメディアが使われているわけです。
 600万部を達成したジャンプワールドは、男の子の世界でした。男の子が性的な世界をどう獲得していくか、暴力を含めて自分の内なるエネルギーをどうするか、あるいは他人とのコミュニケーション、「ジャンプ」のコンセプトである「友情、努力、勝利」として伝わってくるような人と人の関係の規範みたいな部分をどう内面化していくかという、学校では得られない世界を「ジャンプ」は代替していたと思います。


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