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常識からの飛躍
 飛躍力といってもここでの問題は発想の飛躍力である。実行しなくても良いのだからこんな楽なことはないと思うが、なかなか飛躍してくれる人はいない。
 
 私の友人のA氏は会社訪問のとき、「お前は学校の成績が悪い。どうしてこんなに悪いのか」と聞かれると、「私はちゃんと勉強しました。しかし、先生が点をくれないのはどうしようもありません。なぜ、点が低いかは先生に聞いて下さい」と答えて採用になった。受身の優等生思考から自己中心の主体的思考へ飛躍したとして認められたらしい。
 
 戊辰戦争のとき鳥羽伏見の戦いに負けた徳川方には銃弾・刀槍による負傷者が大量に発生したが、何しろ天下泰平が二百五十年もつづいたあとなので、外科的治療のできる医者がいない。大阪で漢方医を集めると、「私は火傷の専門家です。切り傷は知りません」と言うので「それでは焼きゴテを押しあて、一度火傷にしてから治療すれば良かろう」と命令したのか、本人が言ったのかは知らないが、これも発想の飛躍力である。結局、長崎で修行してきた蘭方医が大活躍したので、明治政府は医師法と医療法を制定して西洋医学一本にしてしまった。(西洋医学とはつまり外科中心で戦場医学だったのである。今の平和で高齢者だらけの日本には合わない)
 
 大東亜戦争のとき、ラバウルにいた日本軍は今村均大将の指揮で専守防禦に徹し難攻不落の要塞をつくった。それを見たアメリカ軍の参謀達が攻略法の発見に苦しんでいると、たまたま通りかかったマッカーサーは、「そんなに強力なら攻め落さずに素通りすることにしよう」と言った。大目的が見える人は小目的を捨てることができるという話に使われる。(ただし、これはマッカーサーを神格化するために伝記作者がつくった話らしい)
 
 最近の中国外交は失敗つづきだがそれは大目的が不在でちっぽけな小目的を追いかけるからである。道に落ちて転がる百円玉を追いかけて行って自動車にぶつかる人に似ている。
 
 江戸時代のことだが、淀川の下流の河原に小屋をつくって一人で住んでいる僧侶がいた。小屋の前に鉄鍋を一つぶら下げて近所の人が米や野菜を喜捨してくれるのを有難く食べていた。あるとき、子供がいたずらをしてその鉄鍋に石をいれたところ、散歩から帰った僧侶はそれを見ると「わが糧、すでに尽きたり」と言って断食に入り、村の人がいくら詫びても聞き入れずそのまま死んだという。その僧侶が追求している大目的から考えると、この世の生命をつづけることは小目的だったらしい。発想だけでなく行動も、この世からあの世へと飛躍して見せたのである。
 
 昔の人は子供の頃からこんな話を身近に聞いて育ったので、宇宙的・哲学的・宗教的な発想の飛躍力が身についた。
 こんな先例に比べれば、新製品の開発とか、会社再生とか、大学改革とか、公務員制度の見直しとかに関する議論は、とても発想の転換とも飛躍とも言えないものである。
 
 この間こんな光景を見た。お母さんが子供に言いきかせている。「坊や、坊やはいい子だからね。我慢するのよ。いい子は我慢するのよ。我慢してね」。涙をいっぱい目に浮かべた子供が、母の愛を信じてつまりながら答える。「ボク・・・ガマン・・・スル」。あまりの健気さに、私は自分が子供だった頃を思い出して涙が出た。
 
 「ガマン シテネ」は死語になっている。
 「ガマン・・・スル」も同じである。
 どうしてこうなったのだろうと思うと、この光景は常識から飛躍するバネとなる。
 
一、欲望の充足は人生の大目的ではない。
二、ガマンするのは気高い心である。
三、福祉の充実はむしろ人をスポイルする。
四、不自由なとき人は心を強く強くむすばれる、など。
(二〇〇五年八月「飛躍力」)
 
蒲生氏郷
 蒲生氏郷(がもううじさと)は智も勇も人物も格別にすぐれた武将だったらしい。
 
 豊臣秀吉はそれを看破して、近くに置くのは危ういと考え、小田原攻めが終わったとき会津に九十万石をあたえるとした。
 氏郷は御前を退いてから広間の柱に寄りかかって涙ぐんでいると、山崎右近が近寄って「ありがたく思われるのはもっともなことにございます」と言った。
 氏郷は小声で「そうではない。自分は遠ざけられて、もう、すたり者になったのだ」と答えた。
 
 名誉の昇進ではなく飛ばされたのだと看破していたのである。
 秀吉の看破力と氏郷の看破力の名勝負物語である。
 
 その氏郷が部下の採用をしたときの看破力にこんな話がある。
 玉川左右馬という弁才学智をもって世に知られた人物をある人が推薦した。
 氏郷は喜んで礼をもって迎え十日ほど夜話をしたが、結局、金をあたえて送りかえしてしまった。
 
 老臣達が不思議に思って理由をきくと、「世の智者というのはいかにも重厚にかまえていて見てくれも立派だし、ことばも巧みに器量学才があって、人の目をたぶらかすものに過ぎないのだ。当世は文字に暗い時代だから、このようなものを智者と思ってしまうのだ。
 わしが玉川をみてみるに、いま世にいうところの智者に過ぎぬ。そのわけはこうだ。はじめわしに逢ったときは大いにわしを褒め、諸将をそしり、わしの気にいられようとしていろいろな手を使った。また自分のよいところを称揚されようとして、交友のよいことをあれやこれやと並び立てた。
 このような者は智者だとしても身近に置いておいてはよろしくない人物だ。だから暇をだしたのだ」と答えたと、『名将言行録』岡谷繁実原著、北小路健・中沢恵子訳(教育祉新書)に書いてある。
 
 さて、この看破力は正しかったかどうか。
 看破力の当否はそのときは分からないもので、やがて結果をみてからはじめて分かるが、その点、過去の歴史は結果が出ているので有難い。
 
 「玉川はその後ある家に仕えたが、才智ある者だからいったんは家中の者も名士をえたと喜んでいたが、年月がたつとともに老臣を退け忠直の者を妬み、おのれの威をふるったので、家中の誰もが疎んじ、ついには主家も衰え、主人も過ちを悔やんで玉川を追い出した。そのときになってはじめて、氏郷の明察は神のごとしと、一同心から敬服した」
 
 とても四百年も昔の話とは思えませんね。
一、偉い人は昔からいる。
二、偉くない人もいる。昔も今も。
三、日本の戦国時代は謀陪戦としても、武力戦としても世界の超一流水準に達していた。
四、それを卒業してから日本は江戸時代をつくった。
 
 と考えて江戸時代及び平成時代の日本をあらためて見直すと、
 
一、日本は看破力不要の社会をつくった。
二、日本は看破力を全員がもっている。
三、したがって看破力は売り物にならない国である。
四、それよりも何よりも看破したあとはどうすべきかについての対処法が世界一発達している。
五、それはあまりにも高級で上品なので、世界の人からは誤解される。
 等々だが、あとは読者諸賢の看破力に期待しよう。
(二〇〇五年九月「看破力」)


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