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稲むらの火
 アインシュタインは一九〇六年、二十七歳のとき、特殊相対性理論の補充論文としてE=mc2という有名な公式を発表した。
 この式は、エネルギー量は、質量×光の速度の自乗という意味だが、逆に読めば質量はエネルギーになると読める。だが、アインシュタインの関心は光速の方にあったからそれに着眼せず、あるとき女性の物理学者に教えられてたいそう驚いたそうだ。
 
 エネルギーに着眼しなかったので彼は原発や原爆の開祖になれなかったが、ならずにすんで良かったとも言える。
 恒等式は右から読んでもいいし、左から読んでもいいとは中学生でも知っていることだが、アインシュタインはそれに気がつかなかったというこの話は、着眼や思考の盲点についての面白い事例になる。
 
 羽柴秀吉は天正九年(一五八一年)鳥取城を攻めるとき兵力の損耗を恐れて兵糧攻めにしたが、そのやり方が徹底していた。
 まず、商船数艘を派遣して、時価の数倍の価格で附近の米を買い占め、食料の城内運びこみを妨害した。それから進撃途上の村々で農民を手荒に扱って、農民がたくさん城内に逃げ込むようにした。
 
 その結果それからの籠城戦では餓死者続出で、城監吉川経家は城兵の助命を条件に開城して切腹した。武力戦をせずに経済戦で勝とうという着眼とその実行にあたっての具体的着想が徹底していたところが、流石、秀吉である。
 
 北朝鮮の国内では日本の人道支援が金正日政権を延命させているとうらむ声があるが、日本の外交にはそこまでの想像力やそこからの新外交に着眼する力がない。
 着眼が良ければ事は半分以上成功したも同然である。着眼力がないときは折角の実力が宝のもちぐされになる。
 
 現在、世界を見渡して国際秩序に関して着眼力をもっている国は、アメリカとフランスと中国で、日本は皆無である。
 着眼力や構想力のことをアメリカではインテリジェンスというが、それが日本にはないので尊敬されない。単に国連で常任理事国になりたいというだけで、そのための票集めに必要なインフォメーションを欲しがるだけだから馬鹿にされる。
 
 「国連は“しかじか”をなすべきで、その実現のため日本は拒否権を持った常任理事国に立候補する」とまず言うべきだと思うが、そういう着眼がない。多分、万国が賛成する“しかじか”を発想する力がないからである。
 
 つまり、日本にはインテリジェンスがない。日本には着眼力以外のものはたくさんあるが、着眼力欠如のためバカにされているとは情けないことである。
 
 庶民には実行力がある。それが世界一ある。
 しかし指導者には指導理念と着眼力がない。
 
 シンガポールのリー・シェンロン首相は小泉首相に「稲むらの火」の話は本当ですかと問いかけた。村民の生命を救うために大事な食料を津波警報に利用した浜口梧陵(五兵衛)の着眼力をアジアの各国が見習うべき先例として誉めたたえたのである。
 
 こういう場合、日本国民および小泉首相は何と答えるべきだろうか。即答は無理でも夕食時の首相の挨拶では何か言って欲しかったものである。
(二〇〇五年四月「着眼力」)
 
麻雀
 政策研究をする上で復活して欲しいもののまず第一は麻雀である。
 麻雀をすると物事には「運」があることが身にしみて分かる。
 その昔、大学のまわりには麻雀屋がひしめいていたが、学生が麻雀をするとは、将来の職業はさまざまに分れても、誰でも麻雀を知っているということだった。それが日本社会の思想や不思議な活力の源になっていた・・・と私は断言する。
 
 何事にも運があると知っている人は、同時に理屈には限界があると知っている。
 会社の中でも「やってみなければ分からない」と誰かが言うと、多くの人が賛成して市場分析や成功条件の列挙は中断になりすぐ実行が始まった。同業他社が成功しても「あれは運だ。マネはやめよう」という意見が言えた。成功しても失敗してもすんだことの話に賛同者はいなかった。「タラ、は北海道!」と言われたもので過去を考えない態度が良かった。
 
 麻雀で、手をとめて暫く考えると「あらかじめ考えておけ」とか「ソク、ソク」と言われた。時間は自分ひとりのものではないと分かるので構想力と決断力が身についた。リズムが悪いときは直観力も悪いことが点棒の増減にすぐ表れた。欲を出すと「欲張りは失敗のもと」と言われ、欲を抑えると「慌てる乞食は貰いが少ない」と言われた。実際どちらも正しかった。
 
 麻雀によって理論の限界や教訓の空虚さを日本人は学んだが、そのあと身にしみて残ったのは「悪いのは自分だ」という考えである。そこから筋金入りの自制心や向学心が生まれた。
 他方、麻雀をあまりやらない学生は学者や官僚になったが、それから十年か二十年たって政府の審議会や政策勉強会でその人たちと再会すると、久しぶりに麻雀をしない人の発言を聞いて懐かしかった。
 
 もうお分かりだと思うが、麻雀をしない人は理論的裏づけを欲しがる。データによる証明を求める。先例や権威に頼る。自分が当事者になるのを回避する。「現状認識の統一が必要だ」とか「実態調査をしよう」とか「海外視察団を出そう」とかで、その間は研究がお休みになる。
 
 一体、研究をしたいのか、したくないのか、どちらなんだと思うが、多分、したくないのである。プレーヤーになるといろいろなリスクが発生する。麻雀であれば危険パイをひくとか、捨てれば相手にあたるとかで、プレーの中断が一番嬉しいらしい。それは問題先送りだから国民は「ソク、ソク」と言わねばならない。
 
 新聞記者もそんな人ばかりになった。原因は記者クラブでの麻雀が消えたからで、結婚しない人がふえたのも同じである。
 伏せてあるパイの測定は不能なのにあくまでも測定に努力するから婚期を逃す。
 どんなパイをひいてもそれを活かした手づくりをするのが人生であり、プレーなのに、その面白さを知らない人だらけになった。
 
 監督官庁からご指導を受ける仕事もしたが、政策立案力がない人のご指導は形式的で時代遅れなのでこまった。
 
 そこで提案。
 麻雀を学校で必須課目にせよ。
 麻雀の試合を公務員試験とせよ。
 リズムが良い人に政策立案をさせよ。
 (世の中は法則と確率で動いている)
 
 さて、麻雀に復活力はあるのか、それが心配。
(二〇〇五年五月「復活力」)


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