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日下公人『日本人のちから』巻頭言集
(注)文章末尾の( )内は巻頭言掲載号発行年月、並びに掲載号の特集テーマ「○○力」です。
 
『日本人のちから』創刊にあたって
 東京財団の仕事の一つに政策研究がある。
 政策を研究してそれを提案すると、国民が良い政策かどうかを判定してくれるという仕事だが、この仕事に手をそめるとたくさんの病原菌に感染する。
 その内のいくつかをあげてみよう。
 
 第一は気分高揚で、大臣か首相になったような錯覚が湧いてくる。その結果、謙虚さが失われ、さらにいつの間にか権力万能思想というウィルスに感染するが気がつかない。
 
 第二は密室の自己満足と自己肥大である。
 机上の政策立案やマスコミ相手の政策発表には、結果の検証や責任の追及がないから、ファミコン・ゲームのようなバーチャル・リアリティの世界に入っても気がつかない。
 
 第三は国家依存病である。
 問題の解決を国家権力の発動に求めるのは、一番安易な道だとは承知していてもやめられなくなる。
 
 第四は政策研究の職業化と産業化である。
 その先進国はアメリカなので、そうしたアメリカ病がうつる。SARSと言ってもよい。シック・オブ・アメリカズ・リサーチ・アンド・スクールズである。
 アメリカには政策研究業者がいる。さらにその研究成果を製品として売買する流通市場がある。となればそれに発注する人もいる。
 大企業がシンクタンクに寄附して自社の利益になるような研究をさせるのはその一つである。そして、それを大統領が採用するように圧力をかけたり、キャンペーンをしたりということもある。したがって、「政策研究者」に学問的良心や愛国心や道徳心はあまり期待できないという常識がある。
 しかし、日本では政策研究は頭のいい人が国のため人のため、収入は二の次にしてする活動だと思う人が多い。ただし、近年は日本でもアメリカ病が進行した結果、その信用は低下している。研究費の出所を見れば結論が分かるような研究がふえた。
 
 第五は金欠病である。
 日本は一般の知識水準が高いから、官界、業界のエゴに直結した研究はすぐに見破られる。そこで官界や業界離れをして学界にもどり、基礎からの再出発をめざすが、その場合は金欠病になるのは避けられない。
 
 第六は良心的な人だけがかかる病気だが、それは自信喪失病である。
 日本は超先進国なので、これまでの理論やデータや経験は無意味だが、さりとて日本の現実から出発する新研究のアイデアが湧かないのである。
 
 第七は改革に対する抵抗勢力依存症で、政策研究が職業化した人は食うためにはやめられない。これは生活習慣病とも言える。官界周辺に多い。
 もともと政策研究は政治家と行政官が自らの責任を果たすために自ら情熱をもって行うもので、外注はできない性質のものである。外部からの献策をとり入れることはあっても、その責任は自らにあった。
 それが崩れたのは昭和初期の戦争経済に突入したときと、終戦後、焼野原からの日本経済再建が行われたときで、あの頃は献策者が花盛りの時代だった。
 その後、高度成長が軌道に乗ってからは、この献策活動の組織化が行われた。政党・業界・大学は競争するようにして研究所を内部につくった。行政もつくって、それを天下りポストにした。
 当然、無責任な政策研究が大量生産され、その信用は地に墜ちた。
 日本では研究者が不在または不足だった。アメリカは一流の人材は官庁に入らないから、外部に人材がいた。しかし、日本の官庁内部で立派な政策研究が行われたとも言えない。人材はいたが、官庁の行う政策研究は官益・省益・局益に偏していたので、これも国民の信用を失った。
 
 以上をまとめて言えば、日本国民及び日本の政治家は、立派な政策研究と政策提案に飢えているということである。
 
 そこで、当財団が目指すべき政策研究のあり方が見えてくる。
 それは前述したいくつかの失敗をくりかえすことなく、真に日本のため国民のためを思い、日本の現実から発想する人の発想と研究に発表の機会をあたえることである。
 
 この『日本人のちから』の創刊はその努力の一つであって、多くの人の賛同と参加を得て、日本の政策研究に新しい展開をもたらすことを願っている。
(二〇〇三年六月「革新力」)
 
「パックス・アメリカーナ」と日本人の自立力
 ポスト・バグダッドの世界は「パックス・アメリカーナ」になるという予想がある。アメリカによる「パックス・ロマーナ」の再現とも言われる。
 その心は中近東がアメリカナイズされれば、より幸せな生活になってアラブ人は感謝する、そこでテロリズムがなくなれば世界は平和になり「パックス・アメリカーナ」の時代になる、というわけである。
 ところが戦争が終わると、アメリカは治安そっちのけでフセイン一族狩りを続けているので、アメリカはアラブ社会で尊敬されるために必要な「敗者に対する寛容の精神」を持ち合わせていないと思われはじめた。「本当の目的は石油の略奪ではないか・・・」である。
 
 ここで「パックス・ロマーナ」の成り立ちを振り返ると、ローマも最初は略奪によって出発した。ローマはテヴェレ川の河口に住み着いた三千人のラテン人の若い男達が、サビーニ族の娘達を略奪して生まれた国である。しかしながらローマの最初の指導者ロムルスには寛容な精神があって、後にはサビーニ族にローマ市民権を与えて対等合併し、ローマの共和制が始まった。
 この精神はその後も継続され、略奪の後には寛容な精神による同化政策がつづいた。その結果拡大された大ローマが、総力を挙げて戦ったので強敵カルタゴにも勝つことができた。帝政になっても、皇帝独裁ではなく皇帝と元老院はバランスを取り合った。その結果、ローマによる世界平和が三百年もつづいたが、それが「パックス・ロマーナ」と言われたのである。ローマは非常な軍国主義であったが、中味は寛容の伝統に基づく民主主義であり、共和制であった。
 
 今、アメリカの軍事力は世界最高で誰も正面から手向かう者はいない。だが、アメリカには軍国主義しかなく「パックス・ロマーナ」のような共和制や寛容の精神はないように見える。仮に「パックス・ロマーナ」と同じだと言うなら、イラクからもワシントンへ上院議員が出なくてはならない。
 アメリカ経済は「資本家と労働者とお客しかいない」という自由資本主義になってきている。その上、資本家は国家を操作して高利益をあげるという方法まで使い出している。
 政治をみると、冷戦中は国家的団結が必要だったので支配階級はアメリカ人を「国民」と思って大切にし、中流化政策をとってきたが、冷戦が終わると「貧乏なのは自己責任だ」と言い出した。
 アメリカ社会では、中流・中産階級の没落が大問題になっている。下層・下流の人が「いつかは中流になろう」と思って頑張るのは昔話になり、未来は明るいという中流精神のなくなったアメリカの人々が前途を見る目は暗い。そこで国民精神高揚の国家的イベントが必要になるが、それが戦争では世界は迷惑である。
 
 アメリカも建国は略奪による。インディアンの土地を奪い、生命も奪った。アフリカから黒人を連れてきて奴隷にした。しかし、第二次大戦直後の「パックス・アメリカーナ」には明るい思い出がある。当時のアメリカは世界のGNPの半分を抑えて満腹状態であったし、冷戦時代にはソ連に対抗するものはすべて仲間だという共同体精神があったために、アメリカはその富を配った。
 しかし、冷戦終了とともにアメリカは再び略奪主義に戻り始めた。このままアメリカが軍事力だけを使って世界制覇をすれば、それは「パックス・ロマーナ」とは別のものになると思われる。ローマがその後共和制と寛容の精神を失って皇帝独裁になったように、である。
 
 日本人は「世界は平和が正常で時に戦争が起きる」と考えるが、略奪精神を基に建国している欧米では弱肉強食の略奪が基本であり、戦争の合間に平和共存と相互扶助の時代があると考える。
 日本人は略奪を嫌い、勤勉を好む。島国でお互いに気心が知れた仲なので、相手の気持ちや事情を察するという高級な技術が成立している。内部摩擦がなくて内部コストが低い。気持ちよく働けるから、略奪するより自分で働く方が楽しい。
 欧米は原始的蓄積を略奪で行ったが、日本は二宮尊徳の教えの通り自らの勤勉によって原始的蓄積を成し遂げた。日本はいくら奪われても高度な勤勉主義で困難を克服し、やがて復興してしまう。再起不能になるかと思ったら、また別の手で金持ちになる。これが日本の底力である。
 ペルリ以来それは何度も繰り返されている。ビル・エモット氏が紹介しているが、イギリスの評論でこんなのがあるらしい。「アメリカがドアを蹴破って入ろうとしたら、逆に中から日本人が飛び出してきた」。これはまだまだ何回も繰り返されることだろう。
 
 四百年前に徳川家康は、「鞍上天下を取るも、鞍上天下を治むべからず」として、武力政治を放棄し徳治政治を確立したが、これは今のアメリカが学ぶべき先例である。日本人は武力や経済力を超えた「新世界秩序」のつくりかたを知っている。
(二〇〇三年一〇月「自立力」)


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