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巻頭言集への巻頭言
日本力と日本人
日下公人
 “○○力”という題で約四十回書いたが、今回は最終回で“日本力”について書けと國田編集長から依頼された。
 日本力はありあまるほどあるが、それは日本人自身には当然のことなので見えない。海外旅行から帰ってきたとき、外国人気分で見るとその日一日くらいは見えるがすぐに見えなくなる。
 
 見えたとしても、つぎはその評価が問題である。日本の特殊性をプラスとみるか、それともマイナスとみるか。米を食うのは頭に悪いとか、いやヘルシーだとか。漢字を使うから思考が深くなるとか、勉強が進まないとか。集団合議制だから事が決まらないとか、いや決まったらあとが早くてよいとか。
 どちらにも理があった。それが面白くて評価は多種多様あった方がよいと思いながら育った。
 
 こういう思考態度が日本力の根源ではないかと思い当るのは成人後のことである。民間企業で働くと日本古来の思想・宗教・言論の自由が花開いていて、それが会社の活性化に直結していることがよく分かった。官界でもキャリア公務員の世界にはそれがあった。上下、左右がよく議論するのである。
 しかし、学界ではそれがないように感じた。学者は専門領域というタコ壼に入ったまま主として外国の文献を読んでいた。外国に学ぶことが日本力にプラスした時代もあるが、欧米の長所を十分に採りいれたあとは、かえってブレーキになった。
 
 結局、私が日本力の根源として発見するのは「国民の常識力」である。「国民一般の思考力の深さと高さ」と言ってもよい。
 十七歳で生意気盛りのとき、授業の批判をすると、黙って聞いていた同級生が「そない言うたら先公が可哀想や、先公かて、安い月給で何とかカッコつけてやってはんのやから。少しはつきあったれや」と言った。私は虚をつかれて地面に落ちたような衝撃を受けた。そのときのショックは今もつづいている。生徒が先生を単にサラリーマンと見て、しかも暖かく包容している。
 
 「お前は勉強して偉うなれや。他に取り得がないからな。わしは勉強よりええ娘(こ)をもろうて、ええ子供を育てたらそれでええねん。それが一番やからな」
 その達観は壮大である。それから、“ええ娘”とか、“ええ子供”という表現が持っている重みにも圧倒された。生涯添いとげて仲良く社会の中心を担う家族という意味だが、なまじ勉強をするとそれが分からなくなる。
 
 勉強して社会的な格づけのコレクションをすると立身出世と言われるが、当人の幸せがそれほどふえるわけでなく、もしもそれを自慢に思うようになればかえって人間性の低下だと、彼は言っているのである。
 勉学・進歩・向上・努力・成功は上からあたえられた美徳に過ぎないから、上の人の顔を立てる程度にやればよい・・・という主張も入っている。実際、関西弁の“ええ娘(こ)”という表現にはそれが分かっている女という意味がある。そういうお嬢さんと結婚して、生活費をかせぐためには何でもするが、それ以上はやらないのがホントの幸せと彼は信じ、かつ、実行していた。
 
 こういう庶民の人生観や社会観は活字の世界ではあまり紹介されない。したがって活字人間になると空理空論に踊らされることになるが、その危険性を説く活字媒体もない。
 しかしマンガ・アニメ・映画・演劇の世界にはある。その世界に入ると日本人の長い歴史に培われた重層的な人間観や社会観が生命をもって躍動している。
 
 日本人の思想には重層性があって、神道・道教・儒教・仏教・キリスト教・その他が二千年間の年月を経て消化されている。
 国際社会はお互いに、軍事力戦・経済力戦・文明力戦・文化力戦とそれに加えて心理戦や思想戦を戦っている。
 日本は思想戦に弱いが、それはインテリのことで、庶民は多分世界最強ではないかと思う。
 
 安倍新首相は国家安全保障会議の設置に熱心で、日本もようやく国家の中心に心棒が入ろうとしている。そこで、庶民がもっている重層的な日本精神に立脚した国づくりがスタートすればもう日本力に心配はない。世界をリードする新しい日本が誕生すると思う。


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