日本財団 図書館


新規範発見塾(通称 日下スクール) vol.28
本書を読むにあたって
「固定観念を捨て、すべての事象を相対化して見よ」
――日下公人
 これからは「応用力の時代」であり、常識にとらわれることなく柔軟に物事を考える必要がある。それには結論を急がず焦らず、あちこち寄り道しながら、その過程で出てきた副産物を大量に拾い集めておきたい。
 このような主旨に沿ってスクールを文書化したものが本書で、話題や内容は縦横無尽に広がり、結論や教訓といったものに収斂していない。
 これを読んだ人が各自のヒントを掴んで、それぞれの勉強を展開していただけば幸いである。
(当第28集は、2007年1月から3回分の講演を収録している)
 
KUSAKA SCHOOL
 
第119回 「債権大国・日本」のアキレス腱
(二〇〇七年一月十八日)
「世界一の債権大国」とは、どういう意味か
 日本は世界一の債権大国です。GNPは五〇〇兆円ですが、それとは別に官民合計で五〇〇兆円のお金を世界中に貸している。それを返してくれたら、一年間働かなくてもいい。そのくらい国に貸しています。
 もしも一〇%ずつ利息をくれたら、それだけで五〇兆円が入ってきます。五%なら二五兆円、これは所得税収入の総額に匹敵します。
 ・・・というぐらい気前よく外国に貸したり、投資したりしています。
 日本は世界一の債権大国になっている。それなのに、あらゆる議論にその自覚がない。相変わらず日本は貧乏だとか、輸出をして金を稼がなければいけないという議論ばかりですが、そういう話は遅れています。
 もう一つおかしいのは、「金を貸してあげた。投資してあげた。援助してあげた。だからみんなは感謝しているはずだ、みんな日本の味方のはずだ」と思っている。
 これは大間違いです。金を貸すと嫌われる、という、こんな当たり前のことをどうして忘れているのか(笑)。踏み倒されるに決まっているだろう、と思っています。
 ところが霞が関などにいる人は、みんな育ちがよくて、そう思わないらしい。全員そういう雰囲気ですね。外務省などはほとんどクレイジーではないかと思います。「お金を貸してあげたら、大統領が感謝していました。大変いいことをしました」と、そんなことばかり滔々と言っている。
 二人きりになったとき、「感謝しているのは大統領とその親戚でしょう」と言うと、「そうです」と言う。「そこの国民は何も知らないでしょう」「そうです」。「では、なぜそれを言わないのか」「大統領が感謝していれば、それでいい」という答で、つまり形式主義ですね。
 ODAや外務省の悪口を言っているのではなく、日本人全部がそういう国です。つまり、金持ちになって人に金を貸した経験がない。たいていは「借りて、なんとかまじめに返しました。私は立派な人間です」という人ばかりです。こんな国は世界中にないのです。こんな立派な人たちは、日本の他には滅多にいないということを知らない。
 ですから、政策研究会や、日本国の将来を考えようという会は、あっちにもこっちにもあるが、それに参加すると「全部、根本が抜けている」と思わされます。
 金を貸す国はどうあるべきかという議論が全くない。
 「金を借りたらまじめに返す国」の話ならみんな知っているが、貸したら踏み倒されたときどうするか、とか、そのときカッとしない練習とか、やんわり取り返す方法とかを誰も研究していない。それではあまりにもまじめ過ぎる、というわけで、今日はこういうテーマにしました。
 
「日本は原子爆弾を持て」という結論になる
 おもしろい話がたくさんあるのですが、一時間半のうちに結論まで行かなければいけない。だいたい二六ぐらい階段を登ってもらわないと困る・・・、その二六の階段を手っ取り早く言いましょう。
 そして最後に、二六の階段を登ったらそこに何があるかと言えば、「日本は原子爆弾を持て」という結論があるのです。するとびっくりしますね。「ちょっと、待ってくれ。どこかで騙されているのではないか」と。「それなら、階段を途中でおりたい人は、ここでおりてください」という話もいたします。一つ一つ賛成していると、そこまで行ってしまいますから、このへんで引き返して別の議論をしてもいいですよ、という箇所を申し上げます。
 こういうのを論理的な議論と言います。しかし、論理をどんどん詰めていくと、やがて思いがけない結論になりそうだと予感する力が、日本人は世界で一番発達しているらしい。だから、途中でやめてしまうのですね。そういう結論にならないよう、途中下車をしようという・・・予知能力がすごい。いつも途中下車のことを考えながら前へ進むので、日本の議論は迫力がない。
 外国人と議論するときは、かまわず言ってしまうほうがいいのです。「順番どおりいけばこういう答になる。それでいいか」と。そういう論理的な議論が外国人とはできます。ところが、日本人の間ではできません。「あなたは、ちょっと変じゃないか」と言われてしまいます。「人物はどうでもいい。論理を聞いてくれ」ということにならない。それを一番よく見破ったのが中国人です。「日中友好親善」とか、「感謝、感謝」と情緒的なことを言えば、日本人はそれで済むということを中国人は見破っている。
 
拉致問題の一線を安倍首相は譲っていない
 どうも、話がすぐ横にそれそうになって困るのですが、「安倍首相は大丈夫か」とみんな思っていますね。私もそう思っています。たしかに大丈夫でないところもある。しかし皆さん、テレビで見たと思いますが、この前ASEANの会議で安倍さんと韓国の大統領と中国の温家宝首相、三人そろってテレビに出ていたでしょう。一目瞭然、安倍さんは自信満々。この二人はもう押さえたという顔をしていましたね。二人は押さえられたという顔をしていました。そういうのは顔ですぐにわかるものです。
 何があったのかな、とこの二、三カ月の新聞をもう一回、読み返してみる必要がある。読み返すまでもなく思い出すのは、安倍さんが首相になってすぐ北京へ行ったとき、すっかり腰砕けで帰ってきたという報道になっています。しかし総合雑誌を読むと、そのときは温家宝首相に対して「拉致問題は中国だってありますね。厦門はどうですか」と一言、言っているという。これがどんなに鋭い一言か、たぶん周りの多くの人はわからないでしょうね。わからないから、新聞に載らない。どこかには載ったかもしれませんが。
 こんな外交は、外務省は絶対しませんから、外務省の反対を押し切って、安倍さん一人でやったことに違いない。側近の人に聞くと笑っていましたから、「そうだ」という意味でしょう。つまり、六カ国協議で日本が主張すべきことは拉致問題である。北朝鮮の原子爆弾よりそちらのほうが大事だという一線を、安倍さんは譲らない。昔からそうだが、変わっていない。しかし外務省はそんなことはお茶を濁して、ごまかして、握手して終わりたいわけです。
 「拉致された中国人が厦門にもいる」と中国に言うのは、「おまえも一緒になって戦え」という意味です。北朝鮮に対して言うべきことは、拉致と原爆で、日本は両方大事だが「中国だってその問題があるのだから、一緒になって北朝鮮に拉致問題を言おうじゃないか」と日本が言うことを、外務省はとめる。「そんなことを言ったら、できる話もできなくなります」と。
 しかし、「できる話とは何か。これをやらないで、他にやることがあるのか」という一線を安倍さんは昔から譲っていない。全く譲っていない。それを国民は高く買っているわけで、外務省がとめるのも聞かず、温家宝の顔を見るなり、いきなり「拉致問題はあなたのところにもありますね」と言った。これは一歩も二歩も前進しています。
 そのとき、温家宝さんは「まだ詳しい報告は受けていない」と答えた。「知っている」と言ったら、「では、一緒になってやろう」と言われてしまいます。しかし「知らない」と言ったら、「自分の国のことを知らないのか。もう一回、よく調べろ」と言われてしまいます。
 それから、それを首相が言い出さないようにと、日本の外務省には厳命しておいたのに駄目だったか、と思ったことでしょう。新首相は自分で動く人だと思ったことでしょう。


目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION