マンガアニメ学術的研究会 第7回(2005年11月8日)
高橋秀元氏「マンガ的・・・ニッポン」
発表のタイトルを『マンガ的・・・ニッポン』としましたが、現代のカタカナで書くマンガの元になった発想や編集の積み立てについてお話します。マンガ的なるものは日本に古くから数多くあり、多様なヴィジュアル・メディアが成立してきました。
日本の歴史上に出現した多くのメディアが優れた視覚性を伴っている主な原因は、日本に固有の文字が長らくなく、漢字は普及しにくかったので、ヴィジュアル・コミュニケーションと語りの組み合わせが効果を発揮したこと、天皇制という比較的緩い支配のもとにあったため、リアリズム、笑い、風刺などをめぐる禁圧が早くから解除されたこと、日本に伝来した大乗仏教や密教がイコノグラフィーを積極的に活用し、経典などの内容を画像展開で説明したり、布教のためにヴィジュアル・メディアを開発したこと、近世の武家政権も経済振興などのために図示による博物書、技術解説書などの出版を奨励し、これが民間のアートの水準を引き上げたことなどが挙げられます。
こうした視覚メディアヘの制限が緩やかな中で、遊び心で試みた画像編集技術が積み重なってきたのですが、文章や論理を駆使する完成したメディアはヨーロッパや中国に比べると希薄です。その代わり、画像を用いて理解しやすくしようとか、笑わせようとかいうメディア手法がさかんに開発されました。現代のマンガやアニメが出現する手前に、マンガ的な画像編集の積み立てがある、その部分をお話しようと思います。
●縄文土器にコマ割の出現
縄文土器は、今のところ世界最古の土器とされています。長崎県泉福寺洞窟から1万2000年くらい前の豆粒文土器が出土しています。初期の土器は縄文土器っぽくないのです。国学院大学の小林達雄教授が縄文の発生の面白い仮説を出しています。例えばプラスチックが出現して手桶を作ったとき、木目やタガの模様を付けてありました。そんな模様は必要ないですが、落ち着かない。ところが、プラスチックは新素材という認識が行きわたると、ツルツルの桶でよくなり、木桶にはない丸味を帯び、アヒルだのアニメキャラクターみたいなプラスチックに似合う絵が付いてきます。
同様に土器が発明された時、土器以前の蔓で編んだ袋や皮袋なんかのテクスチュアを写しているそうです。最古の豆粒文土器も土器以前の編籠を写したらしい。そのうち土器は土器なので、それ以前の容器とは違うと考える時代が来ると、口縁に横縞があるだけの隆起線文土器のようなツルツルの土器が全国的に広がります。そして、そこに土器専門の模様を付けるようになります。
土器専用に編んだ縄を回しながら、土器の表面に押し付けて文様をつけたのです。これが縄文で、縄の綯い方は縄文文化圏ごとに独自性が発揮されました。こうなると縄文土器は地域文化のシンボルとなり、近隣の文化圏と競い、そこにイメージの世界も造形されるようになってきます。これは現代でも縄文時代でも変わりないメディアとなりうる素材の発明とそのメディア化のプロセスです。
イメージの造形が活発化したのは縄文中期です。このころ地球温暖化が進み、高度の高い信州とか北方に文化が逃げ出しました。その時代に出てきたのが火焔土器です。この土器の口縁の突起は火焔、水焔、竜とかいわれますが、何であるにせよ、火焔土器を展開すると4つの方向に意味があり、4区画に区切られています。この4区画の文様は驚くほど同形で、同じ比重で四方にバランスさせるという発想です。
ところが一部の縄文文化圏がこの区画を一種の場面展開に用いることを思い付いたらしい。群馬県埋蔵文化財調査事業団が保管する勝坂式土器はヘビみたいな文様をまといます。勝坂文化は信州方面から甲州を通って関東に広がります。その土器文様は恐らく勝坂文化圏が共有する物語を表現しているのではないかと言われます。その展開図を見ると、タテ割りに区画され、その区画がさらに不整形なコマに分けられているように見えます。コマの小さな丸や波形に符合性があるという可能性が指摘されています。どの順序で読み解くかは不明ですが、コマを順次見ることで、物語的な記憶を再生しえたではないかと思われるわけです。
意味のネットワークという面倒な言葉を使いますが、意味の連結体としての物語は意味を想起させるキーワードの束に集約できるわけです。そのキーワードにあたるキャラクターや現象を図形的な記号や速記の符号のようなものに変換し、束ねて記しておくと、物語のシーン展開を再生するのに大変便利なわけです。ということで、ちょっと牽強付会かもしれませんが、ここに符号を束ねたコマ割り的発想が出現していたかもしれないということになります。
この時期は人間が輪郭をだんだん表現することができるようになっていった時代です。およそ3万年ほど前から1万年ほど前、ヨーロッパに洞窟絵画が出てきて、初めて輪郭を意識し表現して、人間に第一次の目の革命が起こった時代でもあって、このころを前後して徐々にイメージの表現が出現してきているわけです。
●銅鐸にストーリー発見
銅鐸が何のために作られたかについていろんな説がありますが、一番多いのは「水」に対する祭祀説です。気比出土銅鐸は一面に渦文様があり、潤沢な水の奔流が描かれ、吊手の部分は天界らしく、雨や雷など気象にまつわる文様が付けられています。そして「伝讃岐国出土銅鐸」(東京国立博物館)には銅鐸の表裏を6つの区画に区切り、ポンチ絵のような絵画が描かれています。
主にスッポンとかイモリの水の動物を描く区画、女性が米搗きしている区画、トンボがいる区画、弓と槍をもって男性が狩猟する区画、穀倉を描く区画などがあります。推察するに、この銅鐸をつくった弥生人はこのコマ割りで、水の流れをベースに人間の生き方を語るストーリーを伝承しようとしているのではないかと感じられます。
これは高さ40センチぐらいで持ち歩くのに手頃ですけれど、弥生後期になると2メートルにも巨大化します。そうなると、区画だけが残されて絵画はなくなります。何百年も同じストーリーを語ってきたので、それはみんなが周知するところとなり、ストーリーを描く絵画より大きさに威厳を求めたとも思われます。
次いで諏訪神社の宝物の鉄鐸を挙げておきます。これは諏訪の祭神、建御名方(タケミナカタ)が諏訪を征服する前にいた守谷という氏族の神器です。守谷氏の伝承によれば、これは水源地を祭った祭祀具だったといいます。この鉄鐸を矛につけたのを携えた氏族の長が水源をめぐって、人間と水の物語を語って水の神を祀ったわけです。この鉄鐸祭祀が銅鐸祭祀の末裔だとすれば、銅鐸のコマ割りの絵画は水にまつわるストーリーを描きだしていたという可能性がかなり高いわけです。
紀元前後の弥生時代に神話のようなストーリーを連続する区画に線画で描いた民族は数少ないのです。日本人は非常に早くからストーリーを連続するシーンとして構成し、それを見て物語を読み取り、それを再生するための画像化を試みたといえます。
●装飾古墳の壁画はアニメーション
古墳が出現すると、その空間構造に物語が埋め込まれます。古墳のような巨大墳墓は世界各地に出現しますが、それは神殿やカテドラルにも発展し、物語を展開する空間になっていきます。古墳の入り口から棺のある玄室までの通路は、この世からあの世への旅の道程と見なされます。それを彩色や文様、絵画を施して表現してみせたのが装飾古墳で、その代表が福岡県の王塚古墳です。王塚古墳の中を歩いていくように、壁面の装飾を並べてみると、次々にシンボリックなパターンが出現して物語性を感じます。
王塚古墳の内部構造を頭に描いて、入り口から朱塗りの羨道を進むと、巨石を左右に配し、長い石を架けた構造がある空間、前室に出ます。その向かって左の巨石には赤地に白や緑で逆巻く波が描かれ、三頭の馬が荒波を渡るかのように描かれます。右の巨石には、同じく赤地に白と緑の重円や整形的な蕨手模様、鱗模様などの落ち着いた画面に2頭の馬が描かれ、二つの巨石に渡された長い石にはグニャグニャした曲線文様が描かれ、その上部には星を思わせる白ヌキの円文が散らされています。
これを眺めると、波と馬は合わないと思いますけれど、海を馬で渡ってあの世に行く様子が描かれているとも思えます。オーディン神話などに死んだ勇者を馬とともに船で永遠の島に渡すという話がありますが、この右、上部、左の巨石の絵画を連続したシーンと見ると、右の絵では古墳の主の魂が馬に乗って海を渡る、上部はこの世からあの世へ転換する混沌、左の画面はあの世への到着という一連の光景を描いているのではないかとも思えるわけです。この近辺の珍塚古墳には鳥が舳先にとまる船が海を渡って混沌の世界に向かう絵画が描かれ、同工異曲の物語を思わせます。
この門を潜って、奥の玄室に入ると、そこは他界の宇宙です。正面の棺が安置された場所は幻覚がおこりそうな鱗文覆われ、その前の左右の低い柱には盾のような何かを遮る象徴が描かれ、入るなと警告を発しています。玄室の朱の高いドームは他界の天蓋を現し、星々がきらめいていますが、結界を設けてここはこの世ではないということを示唆しています。装飾古墳の絵画は空間の分節性を利用して物語のシーンを連続的に展開し、歩きながら見るアニメーションになっている様に思えるわけです。
●熊野曼陀羅はアニメによる観光案内
いきなりですが、アニメがない時代のアニメをご紹介します。異時同図法といって、違う時間を同じ図の中で描く手法が法隆寺の「玉虫厨子」の中で使われています。厨子の上部の宮殿に観音様が困った人がいたら助けようと世界をみそなわします。それを支える台の四方に絵画が描かれ、向かって右側面に前世の釈迦が飢えた虎の親子を憐れんで、崖から飛び込んで自らを食べさせて救済するシーンを描く「捨身飼虎図」があり、釈迦の前世譚「ジャータカ」の1つを画像で表現したものです。
「捨身飼虎図」は崖の上で衣服を脱ぐ釈迦、崖から飛び降りる釈迦、虎に食べられる釈迦が連続的に描かれた一枚の絵画になっています。これを3つのコマに割って、3コマのマンガにすることは簡単です。これをコマにしないで、視点を移動させて動画的に見る。これが同時異図法でした。この手法を日本人は大変気に入りまして、熊野参詣曼陀羅のようなものから、あらゆる絵巻物にこの手法を取り入れています。
熊野参詣曼陀羅は熊野三山一帯を描いた2メートル四方はあろうかという大きな絵図です。参詣の道順に沿って一組の巡礼が描かれ、ぱっと見るとあちこちに同じ巡礼がいるのですが、その巡礼がいる場所のいわれを解きながら曼茶羅の中を進むと、熊野を参詣しているような気持ちになり、絶好の熊野案内図になっています。この巡礼は見る人のアバターにもなっているわけです。
そこには過去の出来事も描き込まれ、幾度も熊野にお参りして莫大な寄進をした白河上皇が熊野本宮に参詣する様子、那智の滝に打たれて修行した文覚上人が失神して不動明王の使いの童子に助けられる様子、補陀落渡海の様子などが描き込まれています。この絵図を熊野比丘尼が道ばたに吊り下げ、熊野の歴史や参詣の功徳を語りながら、「皆さん熊野に行きましょう」と宣伝したわけです。こういうコマーシャルのツールにも異時同図法の手法を用いているし、多くの絵巻物がこの手法を使って、人間や神仏の動きとか、意識にのぼる記憶の光景などを動的に表現しようとしたのです。
●当麻曼陀羅に観るコマ割り
奈良県の当麻寺にある「当麻曼陀羅」という奈良時代の作品の中に、現在のマンガに見られるようなコマ割りが出現しています。この曼茶羅の中央には阿弥陀三尊が坐す浄土が描かれ、その向かって右側に阿弥陀浄土の観想といいますが、イメージとして浄土を見る手順がコマで展開され、左側に釈迦のパトロンでもあったマガダ国王ナーガセーナと王子アジャセの悲劇がコマを連ねた劇画調に描かれています。
いずれも『浄土三部経』という教典に書かれていて、ナーガセーナ王がアジャセに牢屋に閉じこめられ、王位を奪われて殺されるという革命がおこり、釈迦が牢獄に囚われた王に失望しないでがんばりなさい、死んでも阿弥陀が救ってくれると、阿弥陀浄土を観想する方法を教えたと書いてあります。ここから浄土教が発生するのですが、その原典の核心がコマ割りで表現されているのです。
日本では仏教だけではなく、キリスト教の布教にもコマ割りのマンガ的表現が使われました。マリア信仰を示す桃山時代の『マリア十五玄義図』では、中央上部に幼子を抱く聖母、その下に聖母子を賛嘆するイエズス会士ロヨラとザビエルが描かれています。注目すべきは周囲に展開するコマで、西洋ではこんなことはしないと思うのですが、ヨセフと結婚してからのマリア、キリストが死んでからのマリアの物語を左右に分けて、マリア昇天のいきさつがコマの展開で克明に描き出されています。
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