藤 しかし競輪は社会党もかついだねえ、競輪は鳩山内閣時代に、やはり議員立法でやったんでしょう。
平野 当時の緑風会の政調会長高瀬壮太郎さんが、NHKの会長や文部大臣をやられた下村海南先生の後輩として非常に親しい間柄であることをうかがって、ある日、田園調布の下村先生のお宅へお伺いしました。早朝、恐る恐るベルを押して、奥さんに取次ぎをお願いしまして――私は直立不動で「先生!きょうはお願いがあって伺いました」「なんじゃ」「これこれこうゆうわけで、高瀬壮太郎先生にご紹介状をいただきたい」「墨をすれ」というようなことで、すらすらと書いてくれました。
『好漢平野のいうことを、できる範囲で聞いてやってほしい』と書いてある。モーターボートとも何とも書かないでそれから高瀬先生に会うまでに一週間かかりました。紹介状を読まれて「ウン、ウン」と、しばらく考えていましたが「先生に、こういってくれ。ほかならぬ先生のお口添えだから――実は党議として反対と決める空気が非常に強いが――何とかして自由投票にする」と。参議院の本会議で負けましたが、当時、議員数で圧倒的多数の緑風会は、自由投票になって党議としての反対ではなかったんです。
これは、私が使い走りをした狭い一面だけで、あの法案をめぐって、いろいろな方が大変な努力をされたと思います。法案が本会議で否決されたころ、北海道開発法案の審議で国会の期間を三日間延長する、しないで参議院の議長室で、与党と野党がもめていた最中なんです。もし三日間延びなかったら、今日のモーターボートは誕生しなかったかも知れません。参議院で否決されて議会が終われば、それでおしまいだったんです。結局、三日延びた間に、皆さんの懸命な努力が実って国会最終日に、中島議長の一声でサッと起立多数で決まっちゃったんです。その時、社会党席で立ったのが土井直作さんお一人、党議で反対している法案に立ち上がったのを強い印象として思い出します。
藤 この法案のことで、山岸さんという人が相当活躍されたでしょう。
平野 順序は逆になりましたが法案をかけるまでに、いま防衛庁で調本の検査課長をやっていられる山岸さんが、官僚には珍しい――。
藤 豪傑だったんだな。
平野 野人タイプで、気ばってやってくれました。忘れることのできない恩人です。
藤 その本会議がすんで可決されたあとに、いわゆる銀座派と歌舞伎派の対決があったわけだ。
原田 歌舞伎派というのは印象になかった。
平野 だから歌舞伎派なんてのはなくて、銀座派だけだったわけなんだ。もともと、こっちが知らなかっただけかも知れませんが、ところが議会にかかっている間に、運輸委員長が「自分のところにかかった法案を施行する時に、その親方になろうというのは、大蔵委員長が日銀の総裁になろうというのと同じだ」というようなこといい出して――向こうは車は持ってる、議会に部屋はある。こっちには、そんなものがあるもんか、金が一銭もなかった時代でしょう。権威や権力の点からもスターバリュウやネームバリュウの点、立地条件など、これは向こうがいいですわ。歌舞伎派の事務所は、前田さんの「よし、おれが作ろうか」で始まったんじゃないでしょうか。
藤 甘利さんが局長の時代?
平野 そうです、甘利さんもずいぶんご苦労されたことと思います。
苦労してここまで持って来て、大体形が整って、運輸委員長のところで「おれがやろう」は、ひどいですよ。まだ若かったから、当時はずいぶん憤慨しましたよ。
藤 あそこの第五会議室かで、山崎猛さんが運輸大臣のころだろう、あれと前田とが変だった。あそこで会議をやって、圧倒的多数で連合会を前田とその一党で占めよう、こういう考えだった。
平野 山崎猛さんで思い出しましたが、やはり大臣は偉いなあ、と思ったことがあります。参議院の運輸委員会だったと思います。運輸大臣を引っぱり出して、社会党の反対派から相当露骨な吊るし上げがあったんです。
「大臣として、この法案がいまの地方財政を救済する意味でこれしかないと思うか。大臣としてこの法案を通した方が良いと思うか。もう一つ、議員提出となっているが、全部、運輸省が作ったそうじゃないか、官僚がこういうギャンブルものを作ってよいのか」
と食い下がったとき、大臣は
「政治というものは、時にはヒズミが必要だ、地方財政に寄与する唯一無二の法案だとは思わないけれども、現状においては非常に有効だと確信しておる。従って、いろいろご意見もあろうが、諸君、賛成してほしい。また、立法に際し運輸当局が作ったんじゃないか、ということだが、諸君ご承知のとおり、お互い議員は非常に多忙であり、なかなか勉強する機会がない。いずれ、われわれも勉強をし、自らの手で立法する時期が来るであろうが、現実においてはいかなる法案でも、一応、関係者に協力させるということが常識である。従って、これは決して運輸省が独自で作ったものではない。たしかに立法技術については関係省にやらせた方が便利であるということから、そういう意味でお手伝いしたことは事実だが、決して運輸省の立法ではない」
と答え、幾分、議員をたしなめるように
「早く、こういうもので自治体を潤さなくてもいい状態になってほしいと思うが、いまはこれが必要だ、ぜひひとつ賛成してほしい」と、こういうことでした。
司会 それで銀座派と歌舞伎派の双方が主導権を争うことになったんですか、地方で――埼玉県も二つになったときがありますが。
藤 埼玉、神奈川、東京都、その他方々でやったんです。一番貧乏くじを引いたのは東京都で、東京都は連合会の結成で一敗地にまみれた前田を中心とするグループが、東京都競走会というのを作った。連合会に失敗して東京都に集まったわけです。中島守利さん、大野伴睦さん、一円の大政治家、顧問、相談役をズラリと並べて――現在も書類が残っています。
平野 前田さんの方が歌舞伎座に事務所を設けて、国会議員で運輸委員長であることをバックに――。こちらも、ずいぶん動きましたね。三木武吉さん、池田正之輔さん、その他、前田さんに反対という味方もいましたから――。
藤さんの紹介で、埼玉の石川さんのお供をして、広川さんを自宅におたずねし、経過を報告かたがた格段の配慮をお願いしたのもそのころです。
藤 そのうち、いろいろな経過をたどって銀座派と歌舞伎派の第一回の合併交渉が行なわれることになり、銀座派を代表して交渉に行ったのが平野君、板倉君、私の三人だったかな。歌舞伎座へ――。
平野 当時、東京都競走会が、どんな形で、いつ出来るかということは、全国に及ぼす影響が大きかったんです。
藤 そのときの歌舞伎派の代表が田辺、内藤。
平野 東京の事務局長をやった――。
藤 坪井?
平野 そうそう坪井さん、以上の方たちでした。
藤 その前があるんだ、歌舞伎派の東京都の創立総会の案内状が矢次さんに届いて、矢次さんが「藤君、君は東京都の議員もやっていたし、君、行ってくれないか」といわれて、乗り込んだが入れないんだ、会場は丸の内の商工会議所。あとで都議会議長をやった大久保重直、渋谷の区長をやった斉藤清亮、そのほか私の友人がずいぶん居るんだが、それを呼び出したら「藤君、どうしたらいいか」というから「つぶせ、この総会をつぶせ」といったんです。「そんな無茶なことを・・・」「つぶさなければ、おれがつぶすぞ」「ともかく顔の立つようにするから、引きあげてくれ」と、とうとう入れずじまい――。
平野 同じように前田さんが連合会設立準備発会式の案内状を全国へ出したことがありましたね、会場は議員会館で、当日、銀座派から荒居養洲さんと私が派遣されました。一応先方とは事前に連絡がとれていて、当日は後で問題になるような重大な決定はしないという紳士協約があるから傍聴してこい、というわけです。「何か決めそうだったら大きな声で反対しろ」といわれて――。会場受付氏のイヤな奴が来たという顔つきに、二人は敵陣へ乗りこむような――。
藤 敵じゃもん――。
平野 まったく。二人は前田さんに挨拶して「招かれざる客で申しわけありません。使いで参りましたが、何か、おやじ同士でお約束があるそうで、ぜひ、励行していただきますよう、万が一、お守り下さらん場合は、私たちにも発言の自由を認めていただきます」と、結局、坪内八郎さんが、いろいろボートの説明をしただけで、何も決めないで終わりましたが――。
東京都競走会の総会と連合会の設立準備会と、手っとり早く既成事実を作ろうとしたんでしょう。事情を知らない地方の人たちは、これが本筋だ、いや本筋どころか、それだけしか無いという印象を持ちますから――命令は傍聴ですが相当な覚悟で乗りこみました。
藤 大体、プロにモーターボートをやらせようとしたのは、江戸川と逗子で日米対抗があって――これは渡辺儀重さん、山本、田村、この人たちがやったわけです。板倉弥三郎を中心に申請しておりました。逗子が非常に成功したというので江戸川の小松橋のところで、ボートレースをやったときは十万からの観衆が集まって――その後、相模湖でもやりましたねえ。
原田 相模湖では、外人が定期的にやっていました。
平野 いよいよ原田君が活躍される技術的な問題になるんですが――前田さんが動き始めて、完全に銀座派だった堤徳三さん、それから福島女史、この人たちがいつの間にか向こうの陣営に入ってしまった。
法案が通ったあと、法に基づく施行令や実施細則を作らなければならない。これで原田君が苦労されたんです。ビニールで舟の形を作ったり、時計の模型をこしらえたりして運輸省へ持参して――毎週月曜日の午後一時から四時ごろまで、二ヵ月くらいかかったでしょうか?
原田 あの模型はまだありますよ。
司会 この辺で、始まるまでのところをまとめてみたいと思いますが――、連合会を作った当時、会長は足立正さん、運営委員長矢次一夫さん、競技委員長笹川良一さん、技術委員長千葉四郎さん、理事長滝山利夫さん、総務部長平野晃さん、競技部長原田綱嘉さん、技術部長道明義太郎さん、と二十六年十一月二十八日設立の記録に、こういうふうにあります。次に、私どもの調べでも大村の初開催はわかるんですが、津が公認第一号ということになっていますが――、この辺のところは――。
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